”スタートアップ”とはどの企業を指すのか

自分の今の仕事はVenture capital業務として、スタートアップに投資をする仕事をしている。現状はEquityによる出資のみで、Valuationをつけて、第三者割当増資で株を買うことが一番多い。そしてビジネスの基本で、安いときに買って、高くなったときに売るということをするのがVenture capitalで働いている自分の職務だ。

スタートアップとは?

そうした活動をするときに、都度考えることがある。”スタートアップ”とは何なのか?と。スタートアップ企業に出資をすることが仕事だが、そのスタートアップというのは定義が曖昧であると。自分が10年以上前に、知った時はたしかベンチャー企業だったはずである。それがいつのまにかスタートアップやSUなどと略されるようになっていった。

もちろん聞かれたら応えることはできる、急成長する企業だ!とか、Jカーブを掘ることが求められている事業だということは言える。
しかし最近感じているのはこのスタートアップという言葉のゆらぎが大きくなっている。しかし結論から言うとゆらぎは良いことであると思うが、今回はこの記事でスタートアップとは何なのか?/どういった企業のことを指すのかについて思考をしてみたいと思う。

*これはスタートアップの本質を求めるものでもなく定義するものでもない。起業家/VC/その他の個人の中での言葉の解釈を広げたり、考えるきっかけになるために今筆をとっているので、絶対的な答えを下記で書いていくわけではない。

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スタートアップの定義は多様

あなたが考えるスタートアップ企業ってなんですか?って業界外の人に聞いてみるとどういう答えがかえってくるだろうか。Google?Facebook?、日本でいうとメルカリ,Sansan,Free,Moneyforwad,Bizreach?いやDeNAやサイバーエージェントやGREE,Mixiというのだろうか。もしくはSmartHRや未上場の企業のことを言うのだろうか、もしくはもっと小さい5-10名ぐらいのことを浮かべるのだろうか?

スタートアップという言葉が政府も使うようになり、市民権を得たが多分そのスタートアップという言葉についても解釈の広がりを感じてきている。
例えば良く言うのは冒頭にも記載したが、短期的な黒字を目指すのではなく、急成長を目指してJカーブを掘る企業がスタートアップだ!みたいな言説は多い。ただこれもツッコミどころは多い。では黒字企業で、成長している事例もあるなかで、そういったものはスタートアップと呼ばないのか?突き詰めると上はCAPEXが重い事業のみがスタートアップになってしまうが、それもどうなのか?などある。

VCの憂鬱

スタートアップとはどういう企業を指すのか?これを一番考えるのはだれなのか。それはVenture capitalなのかもしれない。なぜなら自分たちは”スタートアップ企業”に投資をすることが求められているからだ。

よく起業家のかたなら言われるかもしれないが、これはVCから調達すべき事業なのですか?のような問いがVC側からあると思う。うるせえよ!と思う起業家もいるとは思うが、正直VC側はこれを聞きながら自分にも問いていることが多いと思う。

例えば地元や地方において塾やカフェを1つ経営するがスタートアップか?と聞かれると、それは違うと応える人は多いだろう。しかし例えばLucking coffeeや、今でいうとCotti coffeeなどは劇的に短期間で店舗数を拡大している。これはスタートアップなのか?と聞かれるとそうなのかもしれないと答える。
スタートアップの意味合いが拡大しているのに悩んでいるのはVCの方なのかもしれないが、これは健全な悩みであると正直思っている。

VCは極論資本コストの問題であるはず

VCという存在は、基本的には資金調達の方法の1つの窓口にすぎない。資本コストが高いお金の貸し手の1つ。それ以上でもそれ以下でもない。(まあVCの実存という深淵なテーマなので、他の記事で書いてはみたいが)

そうしたときに企業側からみると、資金調達をかんがえたときにDebtや他の方法などの中で、資本コストが高いのを許容し、またEXITする機会の提供が必要であることさえ納得できるのであれば、VCから調達は考えるべき選択肢なのである。

しかしPower of lowの世界の中で、資本コスト(IRR)だけの観点で投資を決めているのではなく、結果論のマルチプルを狙ってしまうのがVC側の性でもあり、ここに業が存在する。
1つ1つの投資においての3倍のようなリターンのような確実性よりも、1社が大きくなることへのインセンティブが強く、平均化すると資本コストとしては20-40%に見えるが、実は例えばシードなどは顕著だがより高いものを求めてしまう構造になってしまっている。

つまり何が言いたいかというと、がむしゃらに時価総額が大きくなるような投資先を求めるインセンティブが強すぎて、資本コスト的に適切かを1件ずつ検討するインセンティブが弱い構造にあると個人的には捉えている。

なので今回の問いである、スタートアップとは何なのか?ということをVCの今の基準で考えると、スタートアップ=ユニコーンのような大きな時価総額になりえるかもしれない企業という定義となるのであろう。

しかしそれだけがスタートアップと呼ぶべきなのだろうか?VCで働きながらではあるが、Power of lowだけに当てはまるものがスタートアップと呼ぶという定義はいまいちしっくり来ていない。もちろん責務としてリターンを返すことは第一優先ではある。リアリズム的に見ると、日本の今のスタートアップのEXITは本当にPower of lowなのか?という問いもある(USと比較すると)

そういった中で、日本のVCのファンドサイズは上がっているが、どういったところにスタートアップがいるのか、どういった企業がスタートアップなのか、スタートアップとは何なのか?ということを考える機運がより高まってきているのではないかと思う(自分だけ・・?)

ソフトウェア開発企業がスタートアップなのか

どうしても自分のように2010年代ぐらいからスタートアップのことを知った人間などは、B2Cアプリなどがスタートアップのように思えてしまうことがある。もっというとSoftwareを開発している会社がスタートアップのように見える先入観はある。

インターネットの普及していくときに多感な時期を過ごし、大学のときにスマートフォンが普及していくのを目にし、様々なアプリなどが開発されていっているのを目にした世代にとっては、スタートアップ=ソフトウェア開発企業のようなことがどうしても頭がよぎってしまう。

これは現在のSaaSにも続くような考え方であるし、これは一定度理解出来うるし、理には叶っている。ここ数年での成長要因はほとんどがソフトウェアであり、IT産業である。その成長産業に投資をするのが理に叶っているということが1つ。
また、ソフトウェア産業の何がいいかというと利益構造が良いことであると思う。基本的には粗利率など含めて高いProfitがつくれるはずであるということがある。

当時のVCとの相性が良かった・・が?

またソフトウェア自体は比較的に低コストでプロダクトを創れるという特性がある。そういったCAPEX・設備投資が比較的安価にはじめることができる。VC自体のファンドサイズがそこまで大きくなかった頃を考えると、ソフトウェアは成長しているかつ、投資金額が低くてもエントリー/開発できる。なのでそういったところに投資が集まっていたのも容易に理解できる。

しかしそこから10年以上経過していく中で、ファンドサイズの巨大化/ソフトウェア産業の成熟化・効率化などが起こってきているのが今の2020年代なのではないかと捉えている。
そうすると、ソフトウェアでない重めのCAPEXが耐えられるファンドサイズのものなどが多くでてきた。それはUSも然り。そのためDeeptechのような設備投資や研究フェーズのところから投資ができていくものが増えたりするようになってきたり、シンプルにソフトウェア開発企業だけではないものへの投資が増えてきている。このあたりは自分もBig issue の時代というテーマで記事を書いている。

そしてソフトウェアに目を向けると、開発の効率化などが進展していき、例えば今後よりAIなどの進展において、1人で1000億円級の企業が出ていくる可能性があることはSamAltmanなどが示唆していることだが、そういった場合その企業はスタートアップとよべるのだろうか。

他にも例えばコンテンツに目を向けると、日本においても直近話題であったPalworldなどはそういった性格を纏っていそうだし、海外に目を向けるとMr.Beastや、個人のクリエイターが企業化していくことはわかりつつあることであるが、では彼ら・彼女らはスタートアップなのだろうか?例えばA24などはどういう存在なのだろうか?

このあたりにスタートアップの定義自体の拡張が感じられる。ソフトウェアだけをスタートアップのイメージであったところからどんどん拡張していっている。(ただこれがVCという立場からリターンの観点としてどうなのかは未だ分からないが)
なので重複だが、今一度スタートアップというのがどういう企業なのかは、考えつづけなければならない時代に入ってきている。


スタートアップと実存主義

このようにスタートアップとは何なのか?ということを悶々と考えていたときに、これは実存的な問いに近いのではないかと思えてきた。絶対的なものではなく、自分自身で決断していく態度がより、人としても企業としても大事になってくるのではないか。

これがスタートアップだ!と定めることは窮屈であり、本質主義の弊害であると感じている。その観点において、スタートアップとは実存的であるなと以前から感じていた。サルトルのいう、実存は本質に先立つのである。つまり、企業はスタートアップに先立つことを前提に捉えないといけない。

実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略) 人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。(サルトル:実存とはなにか)

神がいて答えを待っているような時代ではないし、例えばそれがIT成長期にソフトウェアを選ぶことが答えだったのかもしれないが、そういう時代ではない(かもしれない)


実存主義のテーマである、主体性であり、時代に対して投企する(スペキュラティブ)に問いていくことが求められていることが今後も続くのではないか。
まさにサルトルの人間とは何か?をスタートアップとは何かということに例えると、このスタートアップの実存に関する考え方のヒントが現れてくるのではないかと思う。
まさに起業・起業も自由の刑に処されているなかで、自らつくっていく決断をしていくことが必要なのである。

みずから主体的に生きるという「主体性」の概念が出てきます。みずからをつくるということは、未来に向かってみずからを投げ出すこと、すなわち、みずからかくあろうと「投企」すること
(中略)人間はまず先に実存し、したがって、自分の本質はそのあとで、自分自身でつくるものだ、というのがサルトルの考え方です。「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」、これが「実存主義の第一原理」(100分 de名著 サルトル)

会話/対話を続けること

VCも起業側もスタートアップとはこういうものだという本質主義のような議論は捨てて、会話/対話をしていくことが大事なのではないかと思っている。そのなかでのナラティブをお互いに構築していくことによって、多様なスタートアップが生まれるのではないかと期待している。

最近呼んだ中で、”偶然性・アイロニー・連帯”の著者である、ローティーは文化政治という言葉を使い、このような会話を続けさせることの重要性を提案した。
スタートアップとはなにか?という本質に近づくのではなく、その言葉の再記述をずっとやりつづけることが自分たちにとっては重要である。そうしていき、理解の襞(ひだ)を増やしていくことが、より多様なスタートアップという概念であり実存を生むような気がしている。

人々や社会のことばづかいにこだわることこそ重要だ。ローティはのちにこれを「文化政治」と呼び、文化政治こそが、真理の探究を放棄したあとの哲学がなすべき営みだと論じる(中略)

ローティは、物事の本質や知識の基礎にさかのぼって探究することを目指すのではなく、さかのぼるのをやめたらどうなるか、を考え続けた哲学者

ボキャブラリーを媒介にして真理(必然)に近づくのではない。ボキャブラリーを駆使し、ただ単に、それゆえ自由に、自分を「再記述」する。これが「言語の偶然性」におけるローティの議論の要点。
「それは、こういうことですよね?」と別のことばで言い換えて確認することがあると思います。それがローティの言う「再記述」です。再記述は、 抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の〝 襞〟を増やしていくことだ (100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯)

プラグマティズムとしてのスタートアップ

つまり何が言いたいかというと、スモビジだからスタートアップではないや、インターネット/Softwareだからスタートアップではないや、ユニコーンにならないならスタートアップではないみたいな言説に対して、そういったこれがスタートアップだ!という本質を探るのではなく、どういった実存を目指していくなかで、スタートアップというワードをプラグマティズム的に捉えて、起業家は使ったほうが良いのではないかと思う。

FounderのVisonや企業のMissionのためにどう”スタートアップ性”を活かすかということについて、うまく利用したらいいのだと思う。その手段として言葉を活用してよいのではないかと思ったりもする。本質的なものに目をやりすぎると、自分の実存が揺らぐ。それは自分自身で決断すべきだと思う。

一方VCから調達するとなってくると、ここはポイント・オブ・ノー・リターンの一つであるので、気をつけた方が良い。どうしても資本コストや、リターンに対しての時間軸などが定まってきてしまうので、そこは起業家側として気をつけたほうが良いと思う。VCの中のスタートアップ性にはどうしても、限られた時間軸の中での急成長ということがよぎる。そこを理解したうえで、お互いに対話をしていくことが重要ではある。

”スタートアップ”という言葉をどう扱うか

重複だが、スタートアップとは何かの答えをだしたくてこの記事を書いているわけではない。スタートアップという言葉が市民権を得てきた中で、その解釈がゆらぎ、広がっていくことは良いことでもあると思っている。一方VCとしてもどの企業をスタートアップとしてみなしていくのかについては捉え直していかないと、大きなOpportunityを逃してしまうかもしれないという反省もしていたところでもあったので、このスタートアップという言葉について取り上げさせていただいた。

ぜひこの記事を読んでいたかたがたも、自分なりのスタートアップという言葉の扱い方を考えるきっかけの一つになればよいと思うし、重複になるがそのような言葉の再記述が進めば進むほど、理解の襞が広くなっていき、それが多様な社会の基盤になるのではないかということを願っている。

そして、自分がスタートアップなのか?と思っている人たちもぜひそこ含めた輪郭をつくっていければとおもうので、DMでもなんでもいただければ幸い。(電動キックボードから、YouTubeアニメやら、ロボットから、映画から、介護事務所やら、食品事業やら、自分も定義を広げて投資をしてきてはいる。それらが経済的に正しかったかは証明中ではあるが・・)

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