書評:失敗の本質から得るスタートアップ経営への示唆
“日本”に目をむける
最近自分の投稿とかを見ていただくとわかるかもしれないが、日本という国をもう少し現実感をもって理解することが次の大きな企業やチャレンジに繋がるのではないか。ということを考えている。
2010年代はUSが生んだNarrative(Software eating the world的)なものに日本含めて全世界が便乗した。また実際にクラウドであったりスマートフォンであったりという大きな変化があった。それによってのOpportunityが全世界均等に訪れていた。しかしそれも少し陰りが見え始めており、国ごとに改めてNarrativeを考えないといけないような時代がきているような気がしている。(分断を生み出したいわけではない)
その中で改めて日本という国を考え直す必要があるということが自分の今の関心領域だ。日本という主語にした途端に少しナショナリスト感というか大きな主語となってしまうが、日本で仕事をしていて日本の企業に基本的には投資をしているので、向き合っていくべき対象である国であることは間違いない。
日本人の精神性みたいなところから何かしらヒントを得ることができないかと数冊読んでいく中で、”失敗の本質”という本が大学時代に読んだときと異なる印象をもち、スタートアップの経営においてもこのときの精神が良くも悪くもまだ続いている感覚をもったため、本の書評に交えながら書いてみたいと思い今回の記事を書くに至った。
(*題材として戦争を取り扱っていますが、もちろん戦争は反対ですし、あくまで意思決定の構造としての参考としての記載となっております)
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失敗の本質:日本軍がなぜ太平洋戦争で負けたのか
失敗の本質は有名な本であるため、読まれた方も多いかもしれない。ノモンハン事件やガダルカナル島の戦いなどいくつか太平洋戦争のキーとなる戦場を取り上げつつ、どのような日本軍の特性・特徴が失敗を招いてしまったのかについて考察した本である。
ただ戦争といっても、その戦術などにフォーカスしているものではなく、その日本軍と米軍を対比しながら意思決定とそれに伴う構造についての本であるため、軍事本では全くない。どちらかというと組織本であるような印象が強い。
スタートアップでいうと50から100人になっていくときにでていくようなものであったり、また大企業で働いたことがある人からするとああわかるっていうようなことがいくつも載っているような気がしている。
そのような失敗についてこの本を読みながらいくつか、スタートアップ経営や組織運営に役立つポイントがある。内容を振り返りながら、失敗の本質で示唆があるものを現代の経営やスタートアップの知見として活用することができないか考えてみる。
いくつか”失敗の本質”を読みつつ、重要な論点を恣意的に抜き出してみた。この各論点においては、スタートアップ経営においても気をつけるべき点があるようにおもうため、1つずつずつ考えてみたい。
グランド・デザイン/グランド・ストラテジーの欠如
日本軍の共通の失敗の1つにグランド・デザイン/グランド・ストラテジーの欠如というものがこの本を読んでいると何度も出てくる。あいまいな戦略のまま、場当たり的に対応していっていることによって、各々の戦いの意図が現場まで伝わってないことによる様々な齟齬が事例の中でもいくつもでてくる。
成功のための第一条件(前提)は、まず何よりも、作戦目的の明確化であり、それが作戦参加の主要メンバーによって共通の認識のもとに共有されていること、さらに、目的遂行のための自己の任務の認識が正確になされていることが不可欠である
まさに作戦目的の明確化と浸透というものが日本軍には足りなかった。何のためにこの場所でこの戦をしているのか、それが将来どういう勝ち筋につながるのか、そういった考慮が足りていなかった可能性がある。
そのようなグランド・ストラテジーがないなかでの個々の戦いにおいては意味を現場が理解しておらず、結果として何かしら良い結果が返ってくることも多くなかったのではないか。
ある程度の人的、物的損害を与え南方資源地帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国の戦意喪失、その結果としての講和がなされようという漠然たるものであり、きわめてあいまいな戦争終末観である。したがって、そこから導き出される個々の作戦目的にもつねにあいまい性が存在していた。ガダルカナル戦は、こうした戦争観の相違が最も顕在化した例で、米軍はガダルカナルを自らのグランド・デザインに基づく日本本土直撃のための論理的一ステップとして作戦展開したのに対して、日本軍は同島を米豪ルートに脅威を与えるための一前進基地と見たにすぎず、このような戦略構想の相違が戦力の逐次投入という作戦に帰結
インクリメンタリズムに基づく現場の実行力の強さと、弱い全体デザイン力
本書によると演繹的な作成遂行を行ったのは米軍だが、どちらかというと日本軍は帰納的な方法で作戦遂行をしていたという。現在の日本っぽい組織にもいえることかもしれないが、個の力や現場のインクリメンタリズムに基づく実行力は強い。しかし組織になると弱い。それは全体のデザイン力が足りてないからなのではないか。
本書の中でも現場から大本営のフィードバックループがないことや、そのようなフィードバックが後述する”空気・察し・日本的集団主義の弊害”によりうまく機能しなかったことが指摘されている。このあたりは企業経営をしていくにしても同じような現象をどこかでみたことがあるのではないだろうか。
余談だがこの現場の強さというものはDXの弊害にはなっている可能性もある。良く言われる話しだが、システムに働き方を合わせるのではなく、働き方にシステムが合わせるようにできているのが日本の考え方のように思える。結果SIerという産業が強い。それは現場が強いからではないのだろうか。しかし、それはこういった効率化のシステムの導入にはあまり良い効果を生んでない可能性はあるかもしれない。
日本軍は、初めにグランドデザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当り的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行なわれるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった。日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。
エクイティストーリーの欠如
このグランド・ストラテジーの重要性について読んでいたときに、普段仕事をしていて資金調達時含めた企業の成長のグランド・ストラテジー、エクイティストーリーが欠如している場合も多くあることを思い返す。
資金調達のときに聞かれるであろう、なんのための調達なのですか?何の仮説を証明するための調達なのですか?何のマイルストーン・way pointを達成するためのものですか?みたいなところに始まり、この市場をどうやって攻めていく(シェア・売上を増していく)戦略(グランド・ストラテジー)は長期的に何で、今回の資金調達はどの戦略のためになぜやるのか?のような議論と同様に感じた。
特にシードからアーリーあたりを多くみるのだが、現実論資金調達はRunwayが短くなったから行うというのは正しいが、本来は事業活動を行っている中で、より成長していくためのグランド・ストラテジーが組めるようになってきていて、それをいかに早く実現していくためにはこのお金が必要となる!といったものであることも理想像だが重要だ。そのようなエクイティストーリーを描くのは経営陣の重要な役割である。
自社のグランド・ストラテジーはあるのか?そもそもミッションは明確か?それに対してどのような戦略が必要で、そのためにお金はどのぐらいほしいのか?また何を証明したらよりお金を調達すべきなのか?もしくは何が起きれば撤退する必要があるのかということは経営者・経営陣としては常に考えなければならないことではないだろうか。そのことを改めてこの本を読みながら思い出させてくれる。
集団主義・空気・察しの文化
上記のようなグランド・ストラテジーを立てることができない要因の1つとしては日本軍特有の集団主義や、空気・察しの文化に基づいて意思決定が行われていたからでもあることが指摘されている。戦略策定において原理や理論や事実に基づくのではなく、情緒や空気によって支配されていたことをこの本では指摘している。
作戦を現地に伝えるのも曖昧な、「察し」の文化でいかに伝えられていたか、GOでもNOGOでもなく、こういう表情・表現から察してほしいといったコミュニケーションの結果、お互いにコミュニケーションがうまく取れず悲劇を生んだことが何度もあることを読んでいて伝わってきた。
両者とも作戦中止を不可避と考えたにもかかわらず、「中止」を口に出さなかった。牟田口は「私の顔色で察してもらいたかった」といい、河辺も牟田口が口に出さない以上、中止の命令を下さなかった。以上のような事実は、日本軍が戦前において高度の官僚制を採用した最も合理的な組織であったはずであるにもかかわらず、その実体は、官僚制のなかに情緒性を混在させ、インフォーマルな人的ネットワークが強力に機能するという特異な組織であることを示している。
空気に取り込まれる日本人
空気という存在は厄介だ。”空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気によって決定される”。本文中にもこういった記述があるように、空気によって物事がなんとなく結論がでていくことを何度か経験しているのではないか。”こういう空気ですよね”っていう中で意思決定がズルズルと行われていく。
1977年に書かれた“空気の研究”によれば、空気というのは日本人特有のアニミズム的な感性に基づく”臨在感的把握”というものが日本人特有に存在しているのが要因として大きいという。下記で引用したように、なにかしら自然的な力というものを信じている日本人にとって、空気というなんでもないものに霊的な力を敏感に感じ取ってしまう習性があるのではないかということだ。これは確かに自分も日常生活をしていて感覚として理解できないものではない。そういった空気によって多数決は消え全員一致で誰も賛成していない結果が通ってしまうことがありえる。
何でもない物や、何でもない言葉に、その実質的機能や意味内容とは別の、プラスアルファの力を感じてしまう。そこに何らかの力を持った霊のごときものが臨在しているように把握されてしまう。これが「臨在感的把握」です。(中略)自然のようなプリミティブなものに霊的な力を感じるという感覚が、現代のわれわれの中にも生きている。山本さんはそう分析している(メディアと私達 空気の研究)
余談:a16zレッドチーム
こういった意思決定でいかに空気を防ぐかとかはもっと議論やtips的なものがもっと世の中に公開されてもいいのではないかと思う。自分がいま働いているVC業界の仕事の多分80%ほどが投資の意思決定というものでできている。なのでこの意思決定においての仕組みや工夫というものはある程度進んでいるところもあるのではないか。
例えば全員一致でないと賛成できないものから、ある金額などだと一人だけの賛成でいけるみたいな簡易なものから、いまもあるかは分からないがa16zというVCだと社内にレッドチームという反対だけするようなチームを置いて、議論の漏れをあぶり出そうとしていたりする。こういった動きは空気だけで決まるような意思決定を回避しようとしている動きのように思える。このような意思決定の事例がよりもしあれば空気の乗り越え方はあるのかもしれない。余談終わり。
日本的集団主義の弊害
戦略的合理性や経済的合理性よりも、間柄や人のメンツを気にした意思決定というのはみたことがあるのではないだろうか。これは日本特有なのかはわからない、人間の特性のようなものとも思うが、こと人の生死が関わるようなことで、間違った意思決定がいかになされていたかはこの本を読めば実感する。
日本軍の組織構造上の特性は、「集団主義」と呼ぶことができるであろう。ここでいう「集団主義」とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという「日本的集団主義」に立脚している。そこで 重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮である。
意思決定スピードと合理性がスタートアップの強みなはず
スタートアップや小さい組織で働くことのメリットというのは、大企業にないしがらみや上記で説明してきた集団主義・空気・察し ということが比較的少なくできることであろう。
当たり前を疑うことが重要なスタートアップにはうまく乗りこなすべきものだ。空気に合理性がないことは多い(だからといって空気が常に不正解でもないとはおもうが)
スタートアップという新興組織の場合、日本的集団主義の弊害に合うことは少ない。ファクト・事実を元にした合理的な意思決定というものは、大きな・歴史ある組織より圧倒的にできやすいはずだ。日本人という大きな主語を使いたくはないが、特性として上記にあげたものはあるはずなので、スタートアップとしてそれを乗り越える工夫やメタにそういったものが弊害になることは認知をしておいたほうがいい。
精神主義による状況把握の歪み
“竹槍でB29爆撃機を撃墜する”というのはよく聞く戦時のストーリーだが、現実にはそんなことは絶対ありえない。しかし心意気としてはありえるものになるのだ。このあたりに日本の精神主義の根幹がある気がしている。
日本軍の中では”必勝の信念”というものの中で、精神力を過度に誇張することによって、状況把握の歪みをいくつも作り出していったことが本書を読んでいても理解できる。
その結果、失敗を成功だと歪んで報告してしまったり、どうかんがえても戦力差があるのにそれを精神力という神憑り的なものに頼った結果、悲惨な状況がいくつも生まれている(もちろん成功したものもあるとはおもうが)
負けると十中八九わかっているのに日本国民が頑張っているのにといって出港させた戦艦大和と、あまりトラクションに確信をもてないのに大きく広告費をはってエコノミクスが悪いまま突っ走るスタートアップは、スケールの大きさは違うものの構造的には同じようなものが流れている気がしてならない。
また関東軍の作戦演習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神憑り的な指導で終わることがつねであった。(中略)敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
コンティンジェンシープランの欠如
その上記のような精神性で物事に向かった結果は、作戦不成功の場合を考えることを空気が禁止していたような方向性になっていた。これは何も戦争だけではなく、普段でも不成功のこと考えても仕方ないっていう態度はよく体験してきたのではないだろうか。
アントニオ猪木が”出る前に負けること考えるバカいるかよ!”っていう名言があるか、エンターテインメントとしては非常に面白いかもしれないが、戦争含めた重要な意思決定のときには、そんなことは言ってられない。
撤退ラインであったりどうなったらどうするのかというコンティンジェンシープランについては常に必要だと思う。例えばキャリアや事業においても同様である。たまにおこる起業家は退路を断つべき議論みたいなのはあるが、絶対成功する気持ちでやるべきだが、失敗したときを想定してプランBをもつことで大きくチャレンジできるはずだから、そういったものは考えるべきだと自分は思う。
牟田口司令官は、作戦不成功の場合を考えるのは、必勝の信念と矛盾すると主張した。そのため作戦の前提であった戦略的急襲が英印軍の後退作戦によって所期の効果を生まなかったとき、その都度応急的に打ち出された作戦はその場しのぎの中途半端なものにならざるをえなかった。コンティンジェンシー・プランの欠如は、本来の計画そのものから堅実性と柔軟性を奪う結果になったのである。
気合と根性は大事だが最後にすがるものではない => 永遠にPivotを繰り返さない
気合と根性はスタートアップ経営のにおいても一番大事だが、最後に頼るものは気合と根性では良くない。それは精神主義に立脚していることになり、竹槍でB24に勝つこと、銃剣突撃で機関銃に向かっていったガタルカナル島での戦いのような結果になってしまう。
これはあくまで自分としての意見だが、Pivotを繰り返しながらLiving deadになっているようなスタートアップはVCのせいでもあるかもしれないが戦略的に諦めて、打ち手を考えるべきだと思う。Pivotは必ずあるが、業界もドメインも変えながら進めるのは個人的にはオススメしない。もちろんそこから成功する事例もあるが、数としては少ない。
精神主義的に諦めなければ成功するというのは正解ではあるが、コンティンジェンシープランもなく、ただただ諦めないだけというのは好ましくはない。撤退ライン、EXITシナリオを明確化し、それを関係者と握り全力で実行していく。すぐに諦めたほうがいいということをいいたいわけではなく、グランドデザインをした上で、戦略的に撤退していくかどうかを決めるべきだ。気合と根性は大事だが最後に気合と根性にすがるのは、日本の悪しき精神主義のように個人的には感じる。
適応化した教育体系による、パラダイムへの囚われ
本書の中で、日本軍の失敗の要因として、日本軍は環境に適応しすぎて失敗したという記述がある。これは、それまでの戦争や戦い方を学習しそれに適した正解ありきで考えて、教育を陸軍・海軍も行った結果、適応しすぎて新しいパラダイムについていけなくて、適応できなくなってしまったということだ。適応は適応能力を締め出す(adaptation precludes adaptability)という言葉は、クリステンセンのイノベーションのジレンマに通ずるものがあるように思える。
日本軍は第一世界大戦の主戦場にはいくことはほぼなく、日中戦争や日露戦争などを参考として陸軍や海軍でもパラダイムが構成されていった。それは陸軍においての夜間による奇襲の銃剣突撃を主な作戦とすること、海軍においての大型戦艦同士による艦隊決戦思想、そのための大艦巨砲主義。この2つに適応をしてしまっていた。(自ら真珠湾攻撃でそのパラダイムを破ったのにも関わらず)
目的・目標ばかりでなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官や各種の操典が指示するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されさえした。いわば「模範解答」が用意され、その解答への近さが評価基準となっているのである。兵士の訓練において「足を靴に合わせる」ような教育方法が採用されたが、士官レベルの教育においても、そうしたタイプの教育がしだいにウェイトを高めてきた。
そういった適応による硬直化というものが、例えば陸軍においては戦車や機関銃のような火力、海軍においては航空圏の制圧のための飛行機というものにパラダイムシフトが起きて板のにも関わらず、そのまえのパラダイムで適応化してしまっため、そうした自体に適応ができなかった、適応能力を締め出してしまっていた。
大企業のパラダイムを疑えることがスタートアップの強み
一方そういうパラダイムに対して組織などが適応化してないのが、スタートアップの強みである。ここらへんはよくイノベーションジレンマなどでも語られているところなのではある。
既存のパラダイムを疑えることが大事。そのことを大事にせず、記事などで出回っていることは既存のパラダイムであることが多い。そういったものは大企業も知ってるかつ適応している場合が多い。新しいパラダイムは観察と行動からしか見つからず、そうしたパラダイムシフトに乗っていったスタートアップは大きく成長することができるはずだ。
この勝負にはこうして勝ったから、それに適応してきている大企業と同じゲームルールで適応しようとしても負ける、適応は適応能力を締め出すとあるように、適応能力が締め出されているようなゲームチェンジが行われている場所で局地戦を行うことが重要。
失敗の本質は続いている
冒頭にも記載したが、この本を大学生のときに読んだ感触といま社会人を10年ほどやった後に読んだときに抱く印象は全く違った。それはこの失敗の本質に記載されていた組織の意思決定を自分含めて何度も見てきたからだと思う。実体感をもって失敗も経験してきているので、より染みる本になっている。
今回は自分の仕事であり近くでみているスタートアップの経営に紐づけて書評を交えて記載してみたが、この本に記載ある失敗の本質の要素はどの組織においても起こり得るものであるし、ぜひ読んだことない社会人5年目以降ぐらいの方は染みるのではないかとおもうので非常にオススメである。
失敗の要因は、場所を変えれば成功の要因にもなり得る
一方冒頭の日本なりのスタートアップのNarrativeを考えたいということを最近自分の中でも主題としていることを書いたが、この空気など含めた失敗の要因のところにおいては場所を変えれば成功の要因にもなり得るところはあるのではないかとも思う。
例えばエンターテインメントにおける個人の才能を尊重する雰囲気や、空気によるノリ・集団形成の早さ(推し文化?)みたいなこと含めて、集団競技がスポーツでも強いことなどにもなにか関わりはありそうだ。
なので悲観的にもちろん日本の特性を見ることも大事だが、このような失敗の本質にあるような気質が一朝一夕で変わることはない。なので、そういった特性があることをメタに認知しつつどのようにそれを活かすかについても思考を深めていきたいと考えている。そういったものがより体系化できたらまた記事にしたい
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