センスメイキング:データでなく文化を信じる
センスっていう言葉の意味が最近自分の中で重要度を増してきている感覚がある。昔からセンスがある人とかセンスがないとか日常的に使っていた言葉だけど、改めて今の時代はセンスが問われる時代だという認識がより増してきている。
以前下記のようなナラティブの重要性についてポストを書いたが、ポストモダンにおいて大きな物語が終焉した結果、何が絶対的な正解かっていうものは消滅してしまった。そのときに納得感をもった答えをだすために対話によるナラティブの構築が重要なのではないかということを書いたのだが、その納得感の醸成にはセンスというものがより重要になってくるのではないかと思っている。
社会的なコンセンサスをとっていくことが難しくなってきた時代においては、個人のセンスで良し悪しをナラティブとして作り出していく時代なのではないかと思う。そういったセンスのある人を増やしていくことが社会にとっては大事な気がしている。
センスがなかった場合は大衆に流されてしまう。いわゆるインフルエンサー化してしまう、それは大衆迎合につながるし炎上社会へと繋がってしまう。一方センスというものはリベラルであることではない。そのリベラルさと保守性の配合がセンスではあるのかなとおもったりなんかしている。
と、前置きが長くなったがそういった”センス”について漠然と考えていたときに手にとったのが今回の書評を書いた”センスメイキング 本当に重要なものを見極める力”である。
センスメイキングは人文学科に根ざした実践的な知の技法。アルゴリズム思考の正反対の概念。
この言葉に現れているように、センスというのは人文的であるものである。アルゴリズムによって、この本の内容を拝借して表現すると薄いデータの中でだすような結論ではないものである。
本では、センスメイキングに重要なものは5つあると書かれている。
個人ではなく、文化を。薄いデータではなく厚いデータを、動物園ではなくサバンナを、生産ではなく創造性を、GPSでなく北極星を
どれも近代の中で判断でありデータでありそういった啓蒙的な知的なものをリスペクトしつつも、そのアンチテーゼほどまでいかないがそういったものに対しての揺り戻し感を感じる。
シリコンバレー流派的なデータドリブンっていうのは一つこの時代の常識になってきたが、そのデータというものはビッグデータといえども削ぎ落とされたてきた結果のほんの一部でしかない。そういった薄いデータだけではなく、人文的な五感含めたセンスというものを磨いていく必要性があるというのが一貫して伝えたいことなのだろうなということを読んでいて思う。
文化にどっぷりつからないとセンスメイキングは成り立たない。
特にいまやっている自分のベンチャーキャピタルという投資の仕事自体もデータを見て判断するような側面もあれば、最後のひと押しになるのは起業家のオーラであったり、なにか言語化できないところに起因すると思っている(特にシードのような早いフェーズにおいては)
センスメイキングというのはテーブルの上で考えるフリをしていてもやってこない。サバンナにでて生をみて、実体験し言葉にならない何かを自分で感じて考えていくことこそセンスメイキングにつながるのだと改めて思えた。
センスの時代に生きている自分たちこそ、改めてこの本はヒントになりえたもののように感じた。
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