日常的な延命 「死にたい」から考える:僕らの世代の感覚

Books:日常的な延命 「死にたい」から考える

タイトルに惹かれて購入した。死にたいという感情に対して言語化が素晴らしかったかつ、自分も同じような思考をしているなと思っていたら、同い年の生まれで驚いた。

同年代が社会を論じるようになってきたことに希望を感じる気もしている。同じような論者から刺激を受けてこの時代性における感情を言語化しているような感覚になり非常に応援したいし、少し悔しいような感覚にもなった。

死にたいとおもったことは新卒2年目からうっすらずっとあるのだが、これを解決する方法もぼんやりとはわかっている。ただ一つの治療薬としてはこのメルマガ含めて書くこと・創作することは自分の中ではこだわっている。(そう意識しだしたのはこの数年だが・・)自分を取り戻すために書いている。

そういったぼんやりとでも死にたいと考えたことがある人には結構生きていくための考えるきっかけが詰まっている本なので、自分と同じような気持ちがある人にはオススメしたい。

人はサウナに入ったり、SNSに加工したショート動画を流したりしながら「バーチャルな主体」を癒やしているわけである。自らを溶かしているかのような感覚と「バーチャルな主体」が親和性を持つことに関しては、先の議論から理解もしやすいだろう。それでも、どんなに「癒やし」で現状を先送りにしていたとしても、毛並みを整えるようなその弱い気晴らしの効果は薄れていき、ある時こう思う。なんか死にたいな、死んで楽になりたいな。個別具体的な理由があるわけではない。
人は「死にたい」と発することで延命をはかる。誰かに助けてもらいたい。だがとりわけ身近な家族や友人に相談することは難しい。これが親密圏の持つ問題であった。親密圏の外側に「死にたい」の声を投げかけたとき、SNS上で犯罪に巻き込まれてしまう事件さえ起きてしまった。この日常的な「死にたい」の声が封じられてしまいがちな状況で、どのように「死にたい」事態を補うのか。そのために「死にたい」という声自体も分析の対象に置いてみた。SNSを調査するとそこには承認と安心という2つの願望が現れていることがわかった。しかし後者の安心の願望に関しては、そもそもその存在すら見過ごされがちなのである。承認欲求という言葉の強度によって安心歓求は覆い隠されてしまう

おそらく曲霊的「死にたい」とは、郵便的不安なのである。

混乱を避けるために補足しておくならば、郵便的不安とはあくまでも「郵便」の例自体に呼応する、より対象を広く持った感覚であることも忘れてはならない。たとえば自分のところに届いた情報(手紙)がどこから発せられたのか、配達の途中でどのように歪められたのか、自分の投函した情報がどこに届くのかといったことに意識的になる中でも不安は生まれる。社会全体を見渡せるような特権的な視点が機能しづらくなった日本社会では、文化消費などの文脈でも郵便的不安は語ることができるだろう。この雑誌は誰に届いているのか、誰に向けて発せられているのかといった思いに駆られるなら、それは郵便的不安である。現実そのものの確率的な性格が生み出す不安というのも、「郵便」の特徴である。

ゆえに正しくは、幽霊的「死にたい」とは、郵便的不安の一種である