なぜ、空間は退屈か -資本による空間の均質化-
-都市の退屈な風景
どこにいっても同じような景色。同じようなビル。同じようなチェーン店。世界の景色が均一化しているなと思えるようになってきた。昔がどうだったかはわからない。日本の地方都市にいても、どこかすべて立川駅周辺に見えてしまう。そんなように思ったことはないだろうか。
最近海外などにいっても主要な都市というのは同じような姿になってきている気がしている。それはある種便利な感覚もあるが、旅という意味の味気無さっていうのも感じる。ソウルのビルも、NYのビルも、東京のビルも全て外観は違うが纏っている空間性においては全て同じように見えてしまう。
なぜそのような感覚をもってしまうのか、なぜ退屈に感じてしまうのだろうかと思いながらIVSで京都にいき、京都は少し普通の街ではないなってのは思いつつ、その本屋でたまたま出会ったのがこの本である。「いま、なぜ空間は退屈か」というものを見た瞬間に上記のような課題意識と合って購入した
-資本主義の前景化に伴う“場所”の減少と、”非-場所”の増加
この本を読む全体のテーマ感として、人類学者マルク・オジェの空間論に焦点があると読んでいて感じた。2つの概念を彼は提唱している。”場所”と”非-場所”である。
場所というのは、アイデンティティを構築し、関係を結び、歴史をそなえるもの。アイデンティティを構築するとも、関係を結ぶとも、歴史をそなえるとも定義することのできない空間が、非-場所である
この定義上の場所が減少し、非-場所が増加しているのが現代であり、この本のタイトルでもある「いま、なぜ空間は退屈か」というタイトルに対する答えではあると思う。
その非-場所というのは資本主義が生み出しているものである。本の言葉を借りると”資本のフローのための空間及び、資本主義世界が外部に排出するものが押し込まれる空間が非場所である。とある。
例えば、東京などの都市は非場所であるように自分は感じる。もちろん自分自身が出身が香川県ということは大いに影響しているとはおもうが、移動のための場所であっており、また資本主義が隅々まで行き通っている。逆をいうと非常に固有のアイデンティティからは開放されており、非常に広告的であり誰しもがわかりやすい意味でできているように感じる。(この丁寧さというものが面白くないと感じているのかもしれない)
これは東京以外の都市にも言えることではないだろうか。グローバルな標準化は進み、冒頭記述したようにどこにいってもマクドナルドはあると思うし、スターバックスはどこにいってもある。そういったグローバライゼーション・資本主義が進んだ先にあるのは広告的な空間であり、場所のアイデンティティは失われてしまい、歴史の入り込むの余地のないスペクタクル(見世物的)な場所になってしまっている。
-資本による空間の均質化
この非-場所的な空間が多いからこそ、退屈に感じてしまうのではないかと思う。エドワードレルフの場所の現象学から引用すると、”資本による空間の均質化を没個性場所”と呼んでいる。まさに世界中が資本主義精神によって没個性化していっているのが現状なのではないかと思っている。
ではそういった空間が増えていくことは不可逆ではあると思っている(資本主義精神が減退していくイメージはない)中で自分たちはどういったAttitudeをとっていくことが考えられるのか。
-非-場所の迎合と夜への期待
非-場所という中で折り合いをつけていくという未来はある。固有の意味というものを追い求めず、グローバライゼーションの波に身を任せて、個性を滅していく方向性はあると思う。しかしそれは気が狂いそうだ。どこにいっても同じような空間で、薄っぺらいアイデンティティを形成していくようなものはある意味ディストピア的であるが、シナリオとしてはあり得る。この本においてはそういった文脈を受けて、”夜”が前景化してきていることを批判している。
都市の空気感と、流行歌曲の関係性についても触れられており、夜の前景化というものがヒット曲のテーマになってきている。YOASOBI、ずっと真夜中でいいのに、ヨルシカ、Yamaなど最近のヒットチャートに関しては夜を主題にしている。こうした夜が前景化してきた根幹には非-場所からの逃亡が示唆されているのではないかと個人的には読んでいて思えた。
都市の非-場所感を感じているときに、夜になると視界が狭くなり場所性というものが少し顔出す瞬間があったりするのではないかと思う。そういった夜に対して今希望と呼ぶべきかわからないが、何かしらすがっているのが今の時代性ではないのではないかと感じた。夜になると場所性がでてくる。それにすがりたい気持ちの現われではないかなと感じた。(”夜に駆ける”なんてものはわかりやすく、心中の話)
-”場所”への移動と、”場所’の創出
そういった迎合せずに新しい場所を求めていく活動は実際に起きていると思う。その一つとしては安直な選択肢としてあるのが地方移住である。都市から逃げるようにして、地方という場所性に憧れを抱くのはこのような引力があるのだと思う。自分も香川という土地で過ごした記憶より、実は東京で過ごした記憶のほうが長くなってきているとは思うのだが、まだ香川に帰ると”場所”というものを強く感じる。
この場所性というアイデンティティで形成で重要なのにおいてはコミュニティという言葉が世間で流行っているように、土地でなく抽象的なコミュニティに場所性を見出しているような流れのように感じる。SNSがインフラ化したいま、場所というのは東京や香川や渋谷やXXのオフィスといった現実世界の場所に紐づかなくなってきている。それはTwitterでもあるかもしれないし、Discordでもあるかもしれないし、Fortnite かもしれない。これこそBarajiが記載しているNetworkstateのような場所性を持つ国家の創出というものは近い将来に現実になりえるような気がしている
Network staete : クラウドから国土を人口化し、地球上のあらゆる場所でそれを行うことだ。イデオロギーがバラバラで、地理的に中央集権的なレガシー国家とは異なり、ネットワーク国家はイデオロギーは一致しているが、地理的に分散している。国民は世界中に大小さまざまな集団で分散しているが、その心は一カ所にある。(DeepL翻訳)
またその延長にはメタバースの建築の話があり得ると思う。建築自体が資本主義に囲まれているからこそ現実の空間の場所っていうのは非-場所化していてっているという要素はあると思う。メタバースのように建築さえ民主化されていくとしたら(Generative AIの発展もそのためには必要だが)、グローバライゼーションに巻き込まれた標準化したような都市ではない、多様な都市がコミュニティごとにできあがってくるのかもしれない。
-非-場所とマルクスの疎外
このような思想としては、マルクスのいう”疎外”にも近い概念であるとは思う。資本主義によって場所・非-場所ができたように、同じくマルクスにいわせると全てのモノが商品化されていくなかで人間らしい性質を疎外していくといったコンテクストに似ていると思う。都市が商品となっていく(スペクタクルになる)中での疎外感というものを知らず知らずのうちに感じている人たちは多いかもしれない。
その結果、マルクスのいうコミュニズムという概念のように、アソシエーション(自発的な結社)をつくっていき場所をつくっていくことは世界全体に求められている気がしているし、上記で説明した Network stateの流れに沿っているのではないかと思う。
なぜ空間を退屈に感じるのかという疑問から、マルク・オジェの場所・非-場所の概念をもとに、その原因が場所の現象、非-場所の増加ということを感じ、その結果受け入れて迎合しつつ夜に淡い期待を見出すような文化的な背景や、新しい場所を求めてコミュニティを求めて行っているのではないかというのを本を読みながら思っていたことを文章化してみたいと試みてみた。
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