ナラティブだけが人を動かす 〜スタートアップはなぜナラティブを紡ぐのか〜
「ナラティブ」という言葉を耳にする機会がここ5年ほどでぐっと増えたように思います。
3日に1回程度本屋に出向いてはぶらぶらとしていますが、そうしている理由の一つが、時代のトレンドや社会の温度をぼんやりと掴むためだったりします。本屋は世相を反映しているので、売れている本はざっと目を通しています。(余談ですが、kaekaという伝え方のサービスに投資した大きなきっかけの一つは、本屋をぶらりとする中で「この数年は伝え方の本が売れているな〜」と考えていたことでした。)
本題に戻ると、最近本屋では、「ナラティブ」を謳う本が増えたように感じます。例えば、『ナラティブカンパニー: 企業を変革する「物語」の力』や 『ナラティブ経済学 −経済予測の全く新しい考え方』。また、少しだけ古いですが『ストーリーとしての競争戦略』も広い意味ではその一つかなと思います。
尊敬していてお世話にもなっている、投資先のミラティブの赤川さんもまた、ナラティブについてよく話しているのが印象的です。ナラティブについて聞き、感じ、読むなかで、この時代にとって、ナラティブが重要な意味を持っているのではないかと考えるようになりました。でも、「一体なぜ?」というところまでは、自分の中で踏み込めていない状態が続いていて、筆を執っては腹落ち感が足りず、というのを繰り返してきました。
VCとして働く上で、最も考えるのは自分の投資先の成長についてですが、議論をする中でナラティブの重要性が少しだけ言語化できそうな感覚が掴めたので、今回はナラティブとスタートアップについて、自分が考えていることをまとめていこうと思ってます。
(*言い訳:哲学者などの言葉を引用含めて利用していますが、専門家ではないので解釈を間違えている可能性もありますがご了承ください。)
ナラティブとは
そもそもナラティブってなんぞや、っていう話なのだけれども、そもそもは文芸理論の用語で、”物語の「語り方」を研究するための枠組みの1つ”だったようである。これでは、わかったようなわからないようなという気になるが、下記の、ストーリーとの差分からナラティブを解説する文章を読んで少し理解が進んだ。
ストーリーは作り込まれたシナリオに沿って一方的に物語が進行するが、対してナラティブは語り手自身が主人公となるため自由に物語を紡ぐことができる。
つまりナラティブとは、自由に解釈し物語ることが可能なものであり、この言葉の中には多様性・多義性へのリスペクトが含まれているような感覚を自分は受け取った。先にストーリーがあり我々がそれに沿って進んでいるわけではなく、相手にも自分にもナラティブがあり、それを理解し・尊重することにナラティブが存在する意義があるのだと考えている。
続いて、なぜこの時代にナラティブが注目されるのかを考えてみたい。
ナラティブが重要視されている背景
ナラティブが重要視され始めている背景はいくつかあるだろうが、あれこれ調べているうちに、ポストモダン的、ポスト構造主義的な文脈が背景にあるのではと思うようになってきた。
フランソワ・リオタールは、『ポストモダンの条件』の中で、”大きな物語の終焉”を提唱した。この概念を自分は、絶対的な真理や普遍的な原理原則の追求に対して不信感が募った結果として生まれた「万人が信じる真理など存在しないのだ」という世界への姿勢であると理解しており、この概念がナラティブへの関心の高まりに関係するのではないかと考えている。
大きな物語の終焉は、小さな物語の時代、すなわち現在(ポストモダン思想)に通じており、多様な在り方や多元的な社会、すなわち小さな物語が多く出現した社会を自分たちは生きているのではないかと思う。(今もポストモダンなのかどうかは正直わからない)
一元的な解や真理があるとする”大きな物語”は終焉し、それぞれが自由に解釈し物語る”小さな物語の時代”にバトンタッチした結果として、それぞれが物語る「ナラティブ」が台頭するという解釈は可能であろう。
大きな物語から小さな物語への移り変わりとはすなわち、小さな集団の「言語ゲーム」への変遷と言い換えることもできる(言語ゲームの解釈については改めて後述するが、言葉の意味は先天的ではなく、集団内での合意をもって初めて成立するという解釈で使用している)。小さな集団が数多く存在する社会では、独立した言語ゲームの実践を通じて、多様な方向への分散や、差異化の引力になることは容易に想像できる。(差異はデリダ、ドゥールズのテーマらしい)
『いま世界の哲学者が考えていること』によれば、小さな集団やポストモダン思想は、2つの特徴をもつ。
(1)言語によって世界が構築される (2)異なる言語ゲームは共約不可能である
前者によれば、異なる集団は異なる言語ゲームの実践のなかで社会を構築するという社会構築主義・言語構築主義的な考え方の普及を招いた。
後者によれば、言語によって現実が構築されるのであれば、言語の異なりは現実の異なりを導くため、互いの認識に相対性を認める思想にならざるを得ない。これが、相対主義的な考え方を普及させていったと言える。
現代の思想は社会構築主義的であり、われわれは相対主義的な前提の中で生きているのではないかと考えている(別の角度から捉えると、静的な構造主義から、物事は二項対立ではないと説いた脱構築的な社会への変化とも言い換えられるだろうが、今回のテーマでは相対主義的かつ社会構築的と呼んだほうが合うのでそちらを優先する)。
一方余談だけれども、相対主義的な思想を内面化した社会でSNSなどが普及した結果、相対主義は他者や異なる物語の間に緊張関係を生み、異なる言語ゲーム話者が協力して社会を構築するハードルはますます高まり、大いなる社会分断を招いたことは否めないと思っている。
そしてやっと本題に戻ってくるのだけども、このようなポストモダンが生んだ小さな物語に基づく社会では、ナラティブという概念の重要性は増すのではないかと思っている。
先述したような相対主義的で社会構築的な社会においては、他者との関係性は非常に複雑になる。一意的な真理がない中で、同一の意見をもつのは非常に難しい。
しかし、小さな物語においてナラティブを形成するには、一定の同一性や共通認識を持つ必要性が生じる。そのために必要なのが対話の重要性なのではないかと思う。お互いのナラティブの理解や交わりによって、個々人の緊張関係は和らぎうるのではないかと思う。
心理学者のケネス・J・ガーゲンは「人々はお互いの言葉のやり取り(対話)の中で『意味』を作っていくのであり、『意味』とは話し手と聞き手の相互作用の結果である」と言っており、このことを、Words create world(言葉が世界を創る)と表現している。”意味”を”ナラティブ”と置き換えても通用する考え方なのではないかと思う。
では、時代の空気感・思想を踏まえた上で、スタートアップの成長になぜナラティブが重要なのかという本題について記述していこうと思う。
スタートアップとナラティブ
VCとしてスタートアップを支援する中で一つ気づいたのは、スタートアップはポストモダン的で、脱構築的な性質を帯びた存在だということだ。”世界を変える”というのはスタートアップをやっていく限り持っていてほしい気概だが、これはつまり既存の世界に対して相対的に批判する存在としての小さな集団/物語を創っていく意思とも言い換えられる。
しかし一歩俯瞰してみれば、例えばDX一つとっても、絶対に正解/不正解というものはない。エクセルでも、手書きでもいいしSaaSをいれるのもいい。メタバースなども同様、別になくても困らない。そこには相対主義に基づく自由があるはずだ。
しかしそれでもなお、現状維持ではなく社会を変革する物語でありポジションを創っていくのがスタートアップの存在意義だといえると思う。スタートアップという小さな物語とも言い換えてもいい。つまりこれは、社会構築的な運動であり相対主義の中での挑戦=差異性の創出と相互理解への挑戦でもあると思う。
この思想の中では、対話でありナラティブが対外的にも対内的にも必要である。対外的には社会との対話、具体的には資金調達やPRにおいてナラティブが重要であり、対内的には採用や組織運営において効果があるだろう。
繰り返しになるが、今まで説明してきたポストモダン的な社会においてはナラティブによって小さな物語・小さな集団をつくっていくことが重要で、スタートアップ、もっと言うとVC-backgroundなスタートアップの攻め方においては、短期間でこの運動を達成する必要が出てくる。なのでよりナラティブという概念が非常に重要だろう。
では、どのようにナラティブを創っていくのかについて自分の意見を記述してみるが、ここはややリサーチ不足であり、おそらくまだ多くのやり方はあると思う。一例として捉えていただければ幸いである。
ナラティブの創り方
パーパス(ビジョン)・ミッション・バリューの作成
いきなり教科書的な話から入ってしまい恐縮だが、MVVの重要性は自明だろう。(*一方シードVCとしては、シード期はパーパス以外は可変だと捉えておいたほうが良いと思う。PMFもしてないうちに固定しすぎるのは悪手になりうる。)
MVVはまさに、企業を社会と捉え、社会構築主義・言語構築主義に照らし合わせたときの活動の根源だと思う。Words create worldと前述したように、どのような企業をつくっていくのか、さらにはどんな言語ゲームをするのかをは、小さな物語・小さな集団を構築していくには重要である。しかしこれも一方的なストーリーではダメで、ナラティブにするためには対話が重要であり、事あるごとに双方向のコミュニケーションで触れながら構築するべきものだと思う。前述したようにバリューもミッションも可変であると思うので、常にナラティブの中の相互作用で調整していくものだろう。
これらを実現するためには、1on1や対話の機会を意図的に増やしていくべきで、決してトップダウンのストーリーではない「ナラティブ」を意識して共創していくことが大事だと思う。相対主義の中では他人の認識の自由を奪う可能性があるが、このパーパス・ミッション・バリューのもとにできるだけ統一していくことが重要であろう。
その会社独自の言葉を創る
正直上記の案に近いが、ナラティブに言語ゲームが必須である以上、独自の言語を持つことはナラティブの構築に寄与すると考えている。
言語ゲームについてはウィトゲンシュタインの下記の説明がわかりやすい。
言語はそれ単体では意味が確定するものではなく、私たちは日常の中で言葉をゲームのようにやり取りする中で、その意味を確定していく。
つまり、日常のなかで言語の意味が確定するのだとしたら、ナラティブを紡ぐ中で使われる言語には注意を払ったほうが良い。自分たちのナラティブを反映する言語をSlackのスタンプなどで日常使いできるようにすることで、小さな物語のナラティブを構築しやすくなるだろう。リクルート社のあの有名な問いかけなどはまさにナラティブとも言える気がするし、新卒でお世話になったGoogleも、独自の言語がたくさん合った気がする(Sync, Moonshot/10X,Googlinessなど)
センスメイキング理論を活用する
これは入山先生の『世界基準の経営理論』を読んでいるときに出会った理論だ。ミシガン大学の組織心理学者カール・ワイクによって生み出され発展した比較的新しい考え方で、組織を動かす概念として研究されている。
センスメイキング理論は不測の事態・事象に対してそこに「意味づけ」を行いながら行動を起こし、組織に一致したベクトルと大きな力を与えることを目的とした概念 / 「起きている現象に対して、能動的に意味を与える思考プロセス」
センスメイキング理論はこのように説明されることが多い。何が伝えたいかと言うと、センスメイキング理論が伝えたいことも一種の言語ゲームの延長であり、対話の重要性なのではないかと思う。目の前で起きている現象を含め多様な解釈が存在するものに対して、積極的な対話を通じて組織の腹落ち感をつくる。正確性よりも納得性を重要視する姿勢は、ポストモダン的姿勢であると思っている。
こういった考え方・理論を取り入れて経営することはナラティブの組成に大きく貢献するのではないかと考えている。
他にもナラティブを浸透させる方法や手段はあるだろうが、他者へのリスペクトのもと積極的な対話(ミーティングではない)を基軸として組織、社会を構築することがスタートアップが急成長する上で非常に重要なのではないか思う。
VCはナラティブを紡ぐ存在
最後、今の仕事であるベンチャーキャピタルとナラティブについて自分の考えを書いてみたい。
VCの役割の一つは、スタートアップ・投資先と社会を繋ぎ、変化する未来へのナラティブを紡ぐ存在なのかなと思っている。
相対主義に基づき多様な物語がある時代だけれど、ポジショントークとしても意思としても、変化・イノベーションを促進することがVCには求められていると思う。現状維持はVCとは相容れない事態である。スタートアップと、さらには社会と、そして世界とともに新しいナラティブを作り出してく、紡いでいく必要性があると個人的には捉えている。
このように考えるようになったきっかけは、Andreessen Horowitzの活動を見ていて、社会を変えるナラティブを起業家や社会と対話しながら創っていこう、という気概を感じたからである。彼ら・彼女らは、情報発信と投資によって社会と対話しながら新しいナラティブを作り出していっている感覚がある。Cryptoももちろん賛否両論はあるが、a16zがつくったナラティブだと思っている。メディアなどの機能を強化している背景にはそういった意図を感じる。
Cryptoやメタバースなどを見ていて、基本的には社会で劇的な変化は起こりづらいものだと思う。人間は新しいものに自分自身がどう反応するかを予測するのが実に苦手だと自分は思っている。しかし止まることなく進む社会で、わたしたちと”変化”の関係は切っても切れない。変化と社会を繋ぐナラティブを紡ぐ上での手伝いをすることがVCには求められているのではないかと思っている。思想家的な要素は、VCとして個人的に大事にしたい要素である。
少し余談だが最近a16zのアンドリーセンがSubstackの記事で触れた”On Availability Cascades”も本記事を書くインスピレーションを与えてくれた。下記は、DeepLと自分の解釈の共同翻訳である。
アベイラビリティ・カスケードとは、表現された認識が、個人の反応の連鎖を引き起こし、その認識が世論の中で利用可能になることによって、ますますもっともらしく見えるようになること。アベイラビリティ・カスケードは、社会や文化のアイデアを形成し、広める方法だ。(中略)アベイラビリティ・アントレプレナーとは、「アベイラビリティ・カスケードのダイナミクスを理解し、その洞察を利用しようとする社会的主体のことである。政府、メディア、非営利団体、企業、そして家庭など、社会システムのあらゆる場所に存在するこの起業家は、自らの目的を達成するためにアベイラビリティ・カスケードを引き起こそうとする。人々の注意を特定の問題に向けさせ、現象を特定の方法で解釈し、特定の情報の重要性を高めようとするのである。
Availability Cascadesはまさにナラティブの創出に近い現象なのではないかなと思いながら読んだ。ぜひ元のBlogも読んでみてほしい。
何が言いたいかというと、VCが情報発信に力を入れる理由もこのあたりに収斂するのだと思う。VCも、変化というナラティブを作り出す必要性があるからだ。
と書きつつ、自分も日々の業務に忙殺されてしまっているので、きちんと投資先や社会・世界にとってのナラティブを考える時間を持ちたいなとこの文章を書きながら思ったところ。頑張りたい。
という感じで長々と書いてきましたが、どうしたらスタートアップが成長できるだろうか・採用できるだろうかとか、なんでナラティブというワードが本屋で増えているのだろうか、そして哲学の歴史を勉強していたときにこのあたりの概念が紐づきそうになって2−3ヶ月ぐらい寝かしていたんですが、いや書かねば!という気になり書いてみました。
今回割愛したのはAIという存在です。他者との対話によりナラティブが作られる中で、急激に存在感を増しているGenerativeAI系との対話においてもナラティブはつくられるのだろうか・・AIという存在は”他者”なのか・・このあたりは自分の中では思考がまとまっていおらず、今後の残課題かなと思います。
今年はもう少し勉強・思考の年にしたいので、考えるために書くという意気込みでレターは更新していこうと思うので、登録ぜひお願いします。また感想も含めてシェアいただけると励みになります!
Tweet参照
https://www.kaonavi.jp/dictionary/narrative/
https://leadershipinsight.jp/explandict/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9
いま世界の哲学者が考えていること
現代思想入門
https://www.sofia-inc.com/blog/9280.html
Availability Cascades and Risk Regulation
ビジョナリー・カンパニーゼロ
世界基準の経営理論
https://pmarca.substack.com/p/availability-cascades-run-the-world