なめらかな起業とその敵 /スタートアップ or スモールビジネス
スタートアップ vs スモビジ
昨今よくX上などではスモビジが・・スタートアップが・・のような話題がよくでている。それを見ながら考えたことについて書いてみたい。そもそもスタートアップとはっていう定義も実は曖昧。急成長を目指すものやJカーブを掘るものだみたいな議論はあるが、自分も過去の#45 ”スタートアップ”とはどの企業を指すのか という記事で、そのあたりの問いについて考えてみたので、もしお時間あれば読んでほしい。
このような議論が活発なのは、この5年ほどで一気にスタートアップという言葉・概念についての民主化が行われており(昔はベンチャーだった気もするが)、起業したり挑戦することが多くなってきたことが影響しているのではないか。その結果その事業がスタートアップなのか、スモールビジネスなのかということについて問われることが多くなってきたのだと理解している。
いわば起業やスタートアップが身近になった結果、すべての起業がスタートアップであるべきだみたいにうつるものに対しての一種の反発・反動のように思える。その中にはVCへの悪評も含めて、VCから調達しなくても良い事業を作れる、スタートアップを目指さなくてもいいという文脈も含まれている。(個人的にはそれはその通りだと思う)
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スタートアップとスモビジ何が違うのか
結論この記事でも書きたいことだが、そこまで変わりはないとは自分は思っている。むしろあるときはスモビジのように見られ、あるときはスタートアップのように見られるような企業とは多面的な存在であるし、本質何で区別されるのかという基準は正直ないと自分は思う。
ただ”目標設定している成長率”という意味においてはそこを隔てるものはあるのかもしれない。特にVCで働いている自分として企業と接する場合はスタートアップビジネスに投資をするために日々活動している。スタートアップはJカーブでもソフトウェアでもなく、急成長を志す企業だと自分は考えている。
なので、急成長し続けれるビジネスと成長率をストレッチしていく志がある起業家をさがしている。つまりテクノロジーの変化や何かしらの変化に対して投資をすることが多い(業務レベルでいうと高く売れるかという意味においてCompsの評価状況などもあるが・・)
成長率と資本コスト
つまりスタートアップ的といわれているものは成長率が高く、払う資本コストも高くなりがちだというように理解している。VCの資本コストは高く20-40%ほどと言われる。いわばハードルレートとしては、1年にそのぐらいの成長率が求められる。
しかし例えばビジネスの育てるという本においては、”創業者の役割は適切な成長率のコントロールだ”ということを書いている。無理な成長率を目指さずビジネスを育てていくことが健全であるように書いてあるが、スタートアップ的成長とは、それに反して高いハードルレートを設けて、VCなどのエクイティを使って成長していく。(もちろんVCを使わなくてもいい)
なめらなかな起業環境
しかし現場で働いている身としてよく分かるが、その成長率というのは当たり前だが可変的である。特にシード投資をしているときにそれはよく感じる。起業前でも資金が集まるのはテクノロジー含めた変化が激しい、今の時代の一種の歪みでもあるとはおもうが、起業家にとってはチャンスであるがただ当初描いたプランの成長通りにいく起業なんてほとんどない。
多少のPivot含めていわゆるスタートアップワードでいうPMFというものを見つけるまで模索する期間がある。そのなかで最初はスタートアップ的な成長を目指すことができたが、次第にVCが目指す資本コストに担う成長がしづらくなってくる可能性がある。
もしくはその逆もある、特に高い成長率を目指してもいなく始めたのだが、次第にこれはより高い成長を目指すことができるタイミングや、そういった成長を目指すマインドの変化/経営者の交代が行われていく可能性もある。
そのときになめらかな起業環境があると、スタートアップなのかスモビジなのかの切り替えをうまくやりながらすることができるのではないかということを、読んだ人ならわかるように”なめらかな起業とその敵”という鈴木建さんの本を読みながら考えたのがこの今記事を書いている理由だ。
ではなめらかな起業環境とは、その敵とはについて考えてみたい。
なめらかな起業環境とは
「なめらかな社会」という言葉で私が考えたい問題は二項対立のない社会はいかにして成立するのか、ふたつ以上の異なる考え方が、いかにして共存できるかということです。しかも、両者が孤立したまま併存するのではなくて、複数のものを抱え込んだ中間的な状態を許容し、それが時間のなかで変化していく。そんな共存の仕方です。(なめらかな社会は近づいているか)
スタートアップかスモビジかというのは二項対立ではないはずだと考えている。ある時点やある面ではスモビジ的な側面がでて、またある時点やある面ではスタートアップ的な側面がでるようななめらかに変化するものではあるのではないか。
Pre-mature scallingやバケツの穴を塞ぐのような言葉があるように、例えVCの資本コストを払っていても、そのときには成長というよりは ポール・グラハムの言葉でいう “スケールしないことをやれ”という状態なときには成長という観点においてはスタートアップ性は実はない気もしている。
しかしPMFしたとするならば一気にコントロールできる成長率以上のものそしかけていく。このようにいわゆる想像するスタートアップにおいてもフェーズにおいては、多面的なものが存在するように近くにいるとも思う。
逆もしかりで、例えば途中まで利益をだすように経営をしていた(いわゆるスモビジっぽい)が、自社開発したプロダクトを外販していけば伸びると思ってエクイティをVCに放出して急成長していった事例ものもある。またエクイティを使わなくとも起業家が成長を志して伸ばしていった事例ももちろんある。
定義というのは根本的には曖昧であり、なめらかにどちらも選べるような状態・環境を創っていくことが大事なのではないか。
フラットでなく、なめらか
このように二項対立ではなく多義的な側面をもつのが企業も人もあると思っているが、それがどちらかしか良い悪いで語られるのはナンセンスだと思っている。それはフラット化にしていくベクトルにひっぱられすぎている。フラットな世界においては多様性も複雑性もないものとされてしまうが、社会はもちろん企業という組織の集合体も多義的であるはずだ。(後から記載するがポジショントークとしてVC関係者が”スタートアップ”を推すのもわかるし、自分もそちら側にはいる)
その境界をなめらかに考えていくことによって、フラットな世界ではなく多義的多様敵で複雑性のある世界・社会になっていくし、そのための企業という組織の存在が肯定されるのではないかと思う。
フラットはどうだろうか。フラットな状態は、元論的なものである、いたるところ平等で対等な状態を意味する。しかしここには、文化や多様性の源泉でもある非対称性が存在しないという問題がある.フラットな社会は一見理想的なようで、生命のもつ多様性を否定している。一方で、なめらかな状態は、非対称性を維持しつつも.内と外を明確に区別することを拒否する。ある状態から別の状態までは連続的につながっており、その間のグレーな状態が広く存在する(なめらかな社会とその敵)
これはさまざまな境界線をすべてなくし、のっぺりしたフラットな世界にしてしまおうというものではありません。フラットな世界には多様性も複雑性もありません(なめらかな社会は近づいているか)
その敵
ではそういったなめらかな起業・起業環境のその敵とは何なのか。ベンチャーキャピタルである。と書いたほうが喜ぶ人もいるのだろうが、それは解答として局所的な気がしている。
その敵とは、多様な資本コストのオプション不足と流動性の提供機会不足なのではないかと自分は思っている。
上記で記載してきたようになめらかな起業、スタートアップの要素とスモビジの要素がよりなめからになっていくためには、事業進捗に伴い発見した事実に基づいてなめらかに資本コストを変更することができるようになれればよいのではないかと考えた。それができない敵としての、資本コストと流動性について提示してみた。
起業家にとって達成したい、目指しているビジョン・ミッションとまた、事業においての成長率とビジネスモデルを考えた際に可変的にその資本政策を変更することができるのであればそれはなめらかな起業・なめらかな起業環境を構築できるのではないか。
多様な資本コストのオプション
現状事業成長のための資金調達としては、資本コストが低いものと高いものしかないことがなめらかさをなくしている一つの可能性がある。Debtによる調達だと2-4%のようなコストとなってしまい、VCからの調達においては20-40%という高い資本コストとなってしまう。中間の資本コストが足りていない。
多様な資本コストを創っていくことが、多様な成長の方法を生み出すわけでそういったものがより増えてくることがなめらかな起業に繋がるのではないかと思う。VC or Bankみたいな二元論になると、スタートアップ or スモビジのように見えてしまうのが、認知としてもったいない気がしている。
ここにおいては近年Venture Debtのような10%ほどの金利・資本コストのものなどがでてきたりしているし、SaaSなどの特徴的なビジネスモデルに金利で貸し出すモデルなどもでてきたりしている。レベニュー・ベースド・ファイナンス(RBF)のような資金提供の仕方も海外ではでてきているのをちょうどみた。もしくは例えばクラウドファウンディングや、IEOのようなトークンのようなものもでてきており、少しずつ多様な資本コストがでてきている印象もあるがそういった多様性がより増えていくことは重要である。
またVCに限っていうと、ファンドサイズの多様性というものがより増えることによって、求めるリターン・求める資本コストというものがより柔軟になってくることもあり、より小さいファンドか大きいファンドかという2択になりつつあるが、50億円規模の独立系ファンドがあと30個あるだけでも異なるよおうな資金調達環境にもなりうるのではないかと思う。(ただこれはVC側の宿題も多いとは思うが)
流動性の機会提供
もう一つはこれは特にVCとして働いているからだからこそだが、スタートアップ的成長率では、その事業と相性が悪くなった時、もしくはなりそうな場合においてはVCの持ち分など含めて、流動性をもたらすことによって資本政策自体を変更しないといけない。その機会提供を多くすることはなめからな起業環境作りに重要ではないか。
そこにおいてはすでにスタートアップ業界の中では議論はもう多くある、セカンダリー取引や、M&A・スイングバイのような流動性の機会の提供を多くしていくことが必要になってくるし、少しずつこのあたりが様々な関係者のおかげで進捗している感覚はある。
重複だが、事業自体は成長しているが、VCが提示するような資本コスト・成長のハードルレートに合わない場合は、M&Aを考えたり、セカンダリーで別の資本コストなどに乗り換える必要がある。
基本的には資本主義的世界である以上だれか他からお金を借りたものに関しては何かしらコスト以上のものを返す必要がある。そのため、上記のようなコストと成長の認識がずれた資本コストに対しては流動性の機会の提供がより増えていくことが重要なのではないかと思っている。
このように、なめらかな起業環境をつくるためにはその起業して実現したい未来や社会においての手段としての成長資本・資本コストの多様性とそして流動性の機会が多くなることによってもっとなめらかに、スタートアップかスモビジかの境目をなくしていくことができるのではないかと考えている。
ただ、VCとしてのポジショントークはスタートアップ/Big issue
と、ここまで一步引いた目線においてスタートアップ or スモビジについて意見を述べてきたが、ベンチャーキャピタルに勤めている1個人としてのポジショントークとしては、もっとx”スタートアップ”企業を増やす引力は強い。
このあたりはFoundXの馬田さんの記事などが読みやすいので、ぜひ読んでいただきたいが、今日本の特にVC業界含めては分水嶺にある。ファンドサイズを大きくしてきたが、それに担うような1兆円のようなデカコーンの気配はあまりしていないのが現状である。
そういった意味においては、もったいないというのはある。スタートアップという成長率を目指す起業家にとっては、今が一番お金がスタートアップ市場にはある状態なのでチャンスである。一方でテーマとして豊富にあるわけではないかもしれないのも事実だ。
だから以前自分も#43 お金の流れを変えるための"Big issue"の提起のようなテーマを書いたが、そういった大きな挑戦を挑む起業家を増やしていくことや、いわゆるコンパウンドのような複層化していく企業成長を支援していくために野心を生む・視座を上げることがVCの役割でもある。
これはある種うざったくみえることも正直あるだろう。ユニコーンだ、デカコーンだというのはVC側がリターンを返すために産まないといけないものだといわれるとその面は多いにある。一方本当に社会にインパクトを生む企業を産まないとなんのためのVCだというロマンというか、そういった側面もある。
なので、ポジショントークとしてはもっと大きな問いへ、もっと起業家が野心的になるように、視座を上げるような問いをだすことは自分はこのような記事を書きながらも責務としてはあるとは思っている。なので、なめらかな起業といいながらも、スタートアップ的・成長性主義のような人格が日々のほぼではある。
ただそうはいっても、やりたくない成長・現実的に不可能な成長を起業家に強いることは違うとおもうので、それがなめらかになっていくことは重要だとも本当に思っている。そういったポジショントークと現実感ということをうまく自分の中でも配合しながらスタートアップ起業家と向き合わなければならないと日々感じる。自分のなかにおいても多義性・多面性、なめらかさというものをなくさないようにしないといけないなとこの記事を書きながら改めて思う。
複雑な世界を複雑なまま捉える
”この複雑な世界を複雑なまま捉えることができるのか”という鈴木建さんの言葉を借りると、今回の記事もそれにつきる。色んな人のポジショントークや色んな面においてこの論点は語られるが、その他多くの論点と同様に一義的な解答はない。シンプル化していくことのほうが議論は楽だが、複雑に多面的・多義的に捉えていくことをしないといけないのではと考えている。
以前の記事でも紹介した、アメリカの哲学者ローティのが本質主義に陥ることに対して警笛をならし、終わることのない再記述していくことで、理解の襞(ひだ)を増やしていくことによって、対話・会話を途絶えさせない/続けることが大事という主張にも賛同する。
ボキャブラリーを媒介にして真理(必然)に近づくのではない。ボキャブラリーを駆使し、ただ単に、それゆえ自由に、自分を「再記述」する。これが「言語の偶然性」におけるローティの議論の要点。(中略)「それは、こういうことですよね?」と別のことばで言い換えて確認することがあると思います。それがローティの言う「再記述」です。再記述は、 抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の〝襞〟を増やしていくことだ。(偶然性・連帯・アイロニー)
人に説明するときには二元論や結論をはっきりだしたほうがわかりやすいが、そうではないものがあまりにも多い。今回のトピックもそうだと思う。いろんな二項対立をくっきりさせようとおもうと、思想による対立がより明確化して炎上体質な社会になってしまう。そうではなく、なめらかに考え方や立ち振舞いが変化することができるようなことを目指していくことによって、よりよい社会やよりよい起業環境がつくられるのではないかと考えたことについて今回は書いてみた。
ぜひこれも一つの再記述であるため、読んでくださった方がまた自分なりに解釈を出してくれることを期待しているし、個人的にはそれによってよりなめらかな起業環境や、起業思想が日本に実装されていくことを期待している。