D2Cな世界がもたらした功罪

D2Cという文脈

D2Cという言葉が流行ったのはいつぐらいだろうか。Direct-to-Consumerの略で、メーカーがそのまま流通業者などを介さずに、顧客に届けることができるようになってきた。基本的にはインターネットなどの仕組みなどによって、中間をできだけなくしていくことができ効率化できるという文脈の上にあったものであった。

D2Cブランド勃興

その中で、スタートアップへの投資テーマ・起業テーマの拡張として語られはじめた。D2Cという流通の変化をきっかけとした、隙間ブランドの立ち上げや、インターネット上にブランドの重心をおいた新しいDNVB(Digital Native Vertical Brand)のようなものであった。
海外でいうとGlossierや、Casperなどがその走りだったように思える。広義でいうとA24なども個人的にはDNVBっぽいなと考えている。

日本においても今でもそうだが、そのDNVB的なブランドの立ち上がりは多くでてきたことは実感している。4年前ほどのビック投資テーマの1つだった。ここでその投資テーマがどういうものだったのかを論じるつもりはないが、Instagramなどメディアの転換をうまく捉えたものだったと理解している。

Concept of D2C is everywhere

今回はD2Cというのを起業アイデアや、投資テーマとして見るのではなく、そのD2C的な現象が今あらためてどういう影響を及ぼしているのかについて考えてみたい。D2C的な思考方法というのは今後とも物事を為す上では非常に重要な観点でありつづけるため、それがどういったものかについて考えてみたい。


D2Cで届けられること:人格の原液

自分はインターネットやSNSがない時代に、社会人生活をしていないので、なんともこの感覚値がわかりずらいが、それ以前はメディア・媒体がないと社会や人に情報を届ける手段というものが限られていたはずだ。

そこにおいてインターネットやSNSが普及していくことで、ミドルマンや媒体を通さずとも情報や考えていることを届けられる手段が増えてきた。これは革新的である。情報の流通まで一環してできることにより、その人なりの人格や思想みたいなものが生っぽいまま届けられる、ハイコンテキストなまま届けられる可能性が高まっている。

そういった生っぽさをそのまま届けられることによって、受け取り手とのエンゲージメントを高めることができるようになってきているのではないか、ミドルマン・中間媒体を通せば通すほど、その人格というものは薄まっていってしまう。原液で薄めずに、その人らしさが伝えやすくなってきている。

例えばPodcast・ライブ配信などはその最たる例かなと思う。その人らしさみたいなのが編集なしに(Podcastの場合多少編集あるだろうが)伝わっていく。それが視聴者としては面白く感じるし、カタカナ言葉でいうとエンゲージメントが生まれていくものである気がしている。

D2Cはマルクスの”包摂と疎外”からの脱構築手段でもありえる

またD2Cという概念には、マルクスの指摘する資本主義においておこりうる人間の責任感や向上心・主体性というものが資本の論理に”包摂”されるということに対する対抗手段にもなりうる概念ではある。

資本家にとっては、生産性をあげるために労働自体をより細分化していき全体感の見えない中で労働をしていくことっていうのは主体性を失っていく要因になっていく。いわば労働者の「構想」と「実行」を分離することによって、分業システムのなかに組み込まれていく。これは資本の論理によって疎外されていくことに対してマルクスが危惧の声をあげたものである。このあたりは過去の、web3はマルクスの夢をみるか?などを見ていただければ幸い。

こういったものからD2C的な考え方はある種そういった疎外から主体性を取り戻す行為ではないのか。上記で書いたように自分の考えをそのまま伝えることができ、それを誰かに分業することなく人に届けられることができる。分業と対極に考えられるものとしてD2C的な見方はありえるのではないかと思う。

自分で企画を考えて、最後ユーザー・クライアントまで情報が届きそしてそのFBを自分で見て判断をすることができる/しないといけないということは構想と実行を取り戻す行為であり、自律性を取り戻すことができうる。このような側面はD2C的な世界においては大げさかもしれないが一定度あるように思える。


人格が滲み出てしまうことの光と影

こういったD2C的な世界に生きているときには良い点と悪い点どちらも存在している。その両面を理解したうえで、どのように今からのこのD2C的世界観と向き合っていくかは考えていくほうがよい命題の可能性がある。

ノリ・空気感の伝播可能性

良い点としてはやはり熱狂であり、エンゲージメントが高くなりやすいみたいなのは存在する。その人なりの表情や言葉などで伝えることができることは上記で記述させていただいたように、非常に得でありメリットとしてでる部分ではある。メディア/媒体を通してだと伝えづらいようなノリ・空気感のようなものをより伝えることができるようになりうる。

例えば自分も投資先にPodcastや自社記事でインタビューとかは出したほうがいいよっていうのは良く話をしている。それはPV数には現れないが、例えば採用などを目的としたときに、そういったものがあって働いている代表やチームの人格が漏れているものを、原液に近いものがあるほうが、こういった人達と働くのだという実感が掴みやすい。そういったものを伝えることは最後の採用の決め手にはなってくる予感がある。(リーチを増やす打ち手とは少し異なるが)

しかし、このノリ・空気感の伝播はマイナス方向性に働く可能性も多いにある。XやTwitter上で発言が炎上していることは日常茶飯事だが、これはD2C的な世界における弊害の1種である。

社会的正しさとノリ

世代間の違いやポリティカル・コレクトネスを意識をせずに発言したことや、時代性に適していないノリや空気感さえ伝わっていってしまうし、D2C的な伝え方ではそういったものへの検閲機能が動作しずらくなる。会社や組織などというある種閉ざされた空間の空気感と、時代が求める空気感は異なる場合が多い。特にその組織の存命期間がながければ長いほど当たり前に生じるズレではある。

ポリティカル・コレクトネスなどの社会的正しさはどこからくるのか/合っているのか?(人権である)っていう議論は一旦今回では、棚上げにしつつ、そのようなものを意識が低いと漏れてしまうことがあってしまう。ただこれも10年前と今とでもこの社会的正しさというのは度合いが異なり、動的なものであるため捉えることが難しい。そのためD2C的世界観においては社会的批判・炎上のような可能性と隣合わせとなってしまう。(まあもちろん最低限のリテラシーは学んだほうがいいなとおもいつつ・・ただそれも何が最低限なのか、難しい。自分もこの発言が正しいかは悩むときは多い。)

そのため、少数の組織や社会からのアテンションが低いときは、空気感やノリの伝播というものにレバレッジは効きやすいが、例えばIPOしたりや社会の公器として見られることが強まれば強まるほど、D2C的な世界観の中で発言や発信することは非常に慎重になっていくことが構造的な引力として働く。

(なのでこういった今後情報発信においてのコンサルやサービスみたいなのはより流行る可能性がある。もしくはそれこそ、このあたりGenerativeAIなどのテクノロジーによって、燃えやすい表現や今の時代に適した伝え方を教えてくれるサービスとか求められているような気がしている。)


D2C的経営

そういったこの世界においてD2C的経営をうまく利用している会社はいくつも存在する。取り上げる会社以外もそうだが、会社も法人としてのモノであるため、それをいかにD2Cでクライアントやコンシューマーに届けるかは一つ考えなければならないものではある。

それは一つ採用を考えても変化はある。採用を考えるときに、エージェントや人材募集サイトに依頼するというのは重要なアクションではあるが、D2C的世界の前だと大体それがメインの方法ではあった。しかし、D2C的な考え方でいうと採用広報のためのブログを更新したり、社員のSNSを活発化させるみたいなものも一つ手段としてはありえるであろう。(まあ一番は本業で結果を出し魅力的な企業にするという話だが、そういう話を今回したいわけではない。)

例えば他にも、飲食店などはそういった流れがより身近に感じられるのではないか。従来お店の情報をとどけるためには、食べログなど含めてメディア・媒体を通さないと情報がなかなか届きにくくなってきた。ただ例えば自分も好きなお店のInstagramなどは登録しており、そこのストリーズで見て予約などするようになっている。そのためそういったD2C的なコンテンツや情報の届け方を飲食店などはこの数年でより力をいれているように感じる。

また、スタートアップのような小さい企業がこういったD2C的な物の考え方というものは積極的に活用していったほうがいい。なぜなら大企業ほど予算はないが、大企業ほどまだ発言に慎重にならなくていいときはあるからだ(かといって炎上を狙うとか、考えずに発言しろいう意図ではない。ガバナンスや承認フローなどをつくらなくていいという意味においてだ。)

スタートアップ企業における活用方法

例えば担当の投資先でもあるYOUTRUSTが最近資金調達を発表しましたが、会社としてこういったD2C的経営のセンスが良いなと感じている。そのあたりはこの代表の岩崎さんのブログに書いているので抜粋するが、モメンタムの創り方、ユーザー・クライアントへD2C的な情報の届け方が優れているように感じている。

他にもNOTAHOTELのはまうずさんのXへのポストやnoteにも似たようなものを感じる。また投資先ではないが、yutoriのゆとらない日々 アパレル企業の裏側のような、YouTubeなどの更新も同じような意図を感じられる。

他にも多く事例はあるとはおもうが、こういったものは小さくて動きがとりやすいがお金はないという制約のスタートアップのような企業が頭を使って取り組んだほうがいいと思っているので、そういった考え方で今後もいろいろな企業が情報を届け出すとは思う。(安直にSNS頑張ればいいとかフォロワー数増やせばいいということをいいたいわけではないので、注意。)


人のモノ化/スペクタクル化する世界

一方これは社会に対してのデメリットのほうだが、D2C的な考え方を進めていくということは自分の主体を商品化していくことにもつながる。いわゆる人のモノ化に繋がる。モノとして自分を捉えていくことによって、消費されていく感覚っていうのは起きてしまうことは否めない。インフルエンサーなどがバーンアウトしてしまうのもこのあたりに要因があるのではないか。

またこのようなD2C的な世界においてはギ・ドゥボールの「スペクタクルの社会」のようなベクトルを推し進めるようなものではある気がしている。スペクタクルというのは見世物という意味ではあるが、その見世物にとどまらず資本主義全体を覆うイメージや表象という意味で彼は使っている。そのようなイメージや表象が優位に立っていく社会になるということを記載した本である(ざっくり・・多分・・)

いわばD2Cのように自分を売ることによって、モノ化していくことによって社会全体が物質化していく。そのスペクタクルな社会においては虚構なイメージが先行するようになっていく。結果モノ化した自分が消費されることによって疎外化を進めてしまう。

資本のイメージが支配するスペクタクルな社会では人間のあらゆる営みは物質的なものへと還元される(現代美術史)

最初に疎外からの脱構築だ!と書きながら、最後にまた疎外化の可能性を書くのは忍びないが、局所最適的には疎外から逃れられるかもしれないが、それがうまくいきだした結果消費やイメージのために疎外化されてしまう可能性があるという話なのかなとは思っている。こういったモノ化における負の側面も多いため、この概念を取り入れるときには気をつけなければならない。


D2Cは不可逆な流れ

ここまで書いてきたが、こういったミドルマンを排除していく流れは不可逆ではある。なのでこのような世界に今後も生きていくことは間違いない。そういったときにうまくこの流れを乗り越すとよい付き合い方ができるのではないかと思っており、この記事を書くことにした。Web3も広義ではこの流れのなかに存在しているように感じている。この記事が今後の情報発信や伝え方の一つの考えるきっかけとなれば幸いである。

個人的にはこれを踏まえてVideo podcastっぽいものを人に届きすぎない範囲ではじめたいなーと考えている。そういったときにメディアが果たす役割が今後変わっていくのではないかなと妄想しているが、それについてはまた別の記事で書いてみたい。

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