Attention Economyから Engagement Economyへ
クリエイターエコノミーという言葉が生まれてからどのくらい立つのかわからかないけれども、個の時代への流れというものは既知の事実のように今後も不可逆な流れではあるとは思う。そのような中で、そのマネタイズの変化でありクリエイターエコノミーの性質がこの数年少し変化してきているような感覚があり、そのあたりについて言語化してみたいと思う。今後このあたりで起業を考えている方や、クリエイターとして何かをやってみたい方に何かしらの示唆が与えられれば幸いである。
シンプルにこの変化は何かというと、アテンションエコノミーからエンゲージメントエコノミーへの変化ではないかと個人的には捉えている。もちろん複合的であるし、どちらかしか残らないというわけではないが、時代がエンゲージメント、言い換えると熱量であり深さにもう少し着目があたるようなトレンドが今後も続いていくのではないかと思っている。
”Attentionへのマネタイゼーション”に支配されていた
Web2みたいな言葉を批判的に使いたくはないが、結局は今までの個の時代というものに関してはCentlizedされたPFを中心に成り立っていた。そしてそのPFからすると大事なのはユーザーをそこにどれだけ滞留させるかということが目的ではあった。それはマネタイゼーションの手段がほとんど広告かデータの売買であったためである。
そうするとクリエイターに対して何が構造的にインセンティブになりやすいかというと、Attentionをひくようなコンテンツの生成をして、ユーザーをどれだけそのPFにつれてこれるか、量をどれだけつれてくることができるかといったことがインセンティブとして働きやすくなってしまう。そのためアルゴリズムに好かれるようなコンテンツをつくったり、また下手すると炎上するような可燃性が高いようなコンテンツに走ってしまうことがインセンティブ上は正となってしまうような構造になってしまっていたのが正直なところなのかなと思う。
特に人の感情を乱し、Attentionをとるようなコンテンツを生成することが優先されるような構造にあるのは1意見ではあるが、世の中にとって良いことではないと自分は思う。また注目を浴びやすいためのアルゴリズムに支配されてしまっているため、例えばTwitterでいうとプロフィールに飛ぶとアルゴリズム上優遇されるかもと作られるツイートや、TikTokでいうと共有開くコンテンツをつくるのようなものが並んでしまうようになっているように、求めているものでないコンテンツを見させられているし、見られるためにはクリエイターもつくらないといけないという負の構図ができている気がしている
また昨今のGDPRのような規制により広告自体や広告へのデータ提供に対して風当たりが厳しくなってきているのはアテンションエコノミーへの限界であり、転換点を感じる
Engagementへのマネタイゼーションの発明が生まれる
そういった流れの中でエンゲージメントに対するマネタイゼーションの手段がこの数年の中で多く発明されていっているのが今の流れではないのだろうか。古くは日本においてはサロンというモデルにはなるかもしれないし、ファンクラブというビジネスモデルがそれにあたるかもしれない。そういったものも悪意をもって使われてきた場合もあるが、この数年ではよりそういったものの流れっていうのを感じることが増えてきた。サブスクリプションという文化の普及もこのあたりのエンゲージメントに対するマネタイゼーションの可能性の幅を広げてきているのではないかと思う(宣伝ではあるがmishという投資先はここを狙っている)
投げ銭という発明による普及:エモ・推しの表現方法の多様化
そしてライブ配信などが中国から発明されていき、日本においても様々なライブ配信PFができてきている。これももちろんアテンションエコノミー的な要素もありつつ、エンゲージメントエコノミーに属するものではないかと個人的には捉えている。
熱量を図るというのは言葉にすると簡単ではあるものの、実際には計測は難しい。例えばTwitterのフォロワー数が多くても実際に熱量高いファンがいるかはまったく別の図り方になると思う。その分このライブ配信というのものは熱量を可視化できやすいと思う。PVが5でもアテンションエコノミーだとなにも稼げなかったが、そのなかの1人が投げ銭してくれることでマネタイゼーションは成立してしまう。そういった熱量によりフォーカスすることへの流れは投げ銭あたりで普及していったのではないかと考えており、にじさんじやホロライブのようなものを拝見してこのエンゲージメントエコノミーの爆発力っぽいのを痛感した(また宣伝であるtopiaというアバターカラオケもこの文脈で投資させていただいた)
何が言いたいかというと自分の推しであり熱量をお金という表現によってクリエイターなりに還元できる方法がより普及されはじめたということである
NFTという発明による深化:受動的な観衆から能動的な関係者へ
そしてこのCryptoの流れで登場したNFTによってこのエンゲージメントエコノミーは更に深化していくことを予感している。NFTの説明はいろんなところでされているので省くけど個人的な捉え方としてはOwnershipを持てることがNFTやTokenの意味だと思っているが、つまりより主体的に対象にEngageしていくことができる・エンゲージメントの意思表示が誰からみてもわかるやすくなる発明としては最適であるということだ。(下記記事は自分が書いたWeb3に対する認識について)
これもいろんなところで語られているので改めて書く必要はないかもだが、NFTによりインターネット空間上での保有であり所有というものが第三者からみてわかりやすくなった。あるアイドルの初期のライブにいった証というものをNFTに残すことができるようになると、それは一種の自慢になるはずだし、それにいくことに対してのエンゲージメントを示すことができるようになる。より一層NFTはバッジ的な使われ方は今後ガス代の減少やウォレットの増加とともにこの数年で普及していくだろうと考えている
また当たり前の話しではあるものの、NFTの購入などによってクリエイターなどにマネタイゼーションとしても還元できる。自分の気持ちを投げ銭という形で表現できていたものが、更にNFTというもので所有・保有までできてEngageしていくことを誰が見ても表現できるようになっていった。これによってエンゲージメントエコノミーが深化していくことが予見できる。
またNFTによる深化はただ単純にエンゲージメントをお金に変換できるだけではなく、受動的な観衆から能動的な関係者へと立場を変換することができるのである。関係者へと変容していく中で共創していくようなコンテンツスタイルそのような経済圏(お金の循環という意味において)がより今後生まれていくのではないかと考えている
実際にたとえば、ミュージシャンのダニエル・アランが2021年にアルバム『Overstimulated』を87人の支援者から50ETH(当時約14万2000ドル)を集め、音楽制作の資金を調達した。トークン・ホルダーは、出資の見返りとして、アーティスト・シェアの50%の利益を得ることができ、ダニエル自身と直接連絡が取れるようになったりする事例が出てきている。映画では渋谷というプロジェクトが、アニメシリーズ「ホワイトラビット」の制作のために400ETHをNFTプロデューサーパスの販売で集めたりしてもいる。このパスにより、保有者は各章の結果を決定し、完成した映画の所有者になることができるようになったりしている。このように多様な事例がでてきており、今後も流れとしては増えていきそうな気配がある。
Engagement Economyの弊害
ともすればこれは熱狂的で狂乱的な要素を含んでしまってしまう、教祖化しやすいモデルである。まわりも同じようなエンゲージしている人だらけになっていくので、この分断社会をさらに分断していく危険性もある。下手すると狂乱的なものを産んでしまう危険性がある。アテンションエコノミーが炎上商法を加速させたように、エンゲージメントエコノミーも何かしら社会に負の影響を与える可能性も否定はできない。熱狂は人を狂わす。
このようにアテンションエコノミーからエンゲージメントエコノミーへというテーマで書いてきたものの、どちらかでしかないということはないと思うし良さ悪さはどちらにもあるとは思う。ただ時代の変化としてアテンションエコノミーは限界を感じてきており、より今後はエンゲージメントエコノミーへと移行していくのではないかと考えている。そうした中でビジネスとして考えられるものも今後起業家が見つけていくことを期待している
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