現代の茶室/コーヒーハウスはどこにあるか
公共圏/ナラティヴの起こる場所
前回の記事において、メルマガなどのようなものは公共圏ぽさや、公的・私的なもののベン図の重なりのような存在なのではないかと書いた。またそういったものの良さは友達づくりになることができるという効用があることも記載した。今回はそういった場所が他にどこにあるのか、またそういった場所の重要性について考えてみたいい。
以前にナラティヴの重要性についての記事で、ざっくりいうと大きな物語への不信感、合意形成の困難性により、小さな物語の時代、ポストモダンな時代に今生きている中で、対話を通じて信じられるナラティヴを創り上げていくことの重要性について考えた。
大きな物語の終焉=絶対的な真理や普遍的な原理原則の追求に対して不信感が募った結果として生まれた「万人が信じる真理など存在しないのだ」という世界への姿勢(ナラティブだけが人を動かす)
対話の機会/場所の減少
そういったナラティヴをつくっていくためにも、人々の対話を促進していくことが重要であるし、実際に例えば企業においての1on1文化などもそのような流れを組んで企業経営というメソッドではある。しかしそういった対話ができる場所っていうのはどんどん減少しているのではないだろうか。
これは様々な要因はあるが、1つはコロナという大きな変化の影響は大きい。今は大分元に戻ったと思うが、コロナにより人と人の関係性を合理化する力が働いてしまったが、その合理化によって抜け漏れている部分、これが対話の機会なのではないかと考えている。
リモートが悪いわけではないが、どうしてもリモートは報告や共有に向いており会話・対話はしずらい。例えば人数が多い会議でディスカッションよりも、情報共有・報告がメインの場合は非常に向いているだろう。しかし、なかなか脱線した話などはしずらい。(これに限っていえばそもそもミーティング自体がそういうものなのかもしれないが。)
そしてアルコール離れ・飲み会離れもこの流れに加速をしている。自分も飲み会がそこまで好きなタイプではないが、やはりコロナでこれが必要だったのか?ということを自分も考えて、あんまり飲み会を参加しなくなった。そしてお酒も正直飲まなくなったら、あまり飲めなくなった(アルコールの未来については別記事でも考えたい)
そういった場所やタイミング・機会が、コロナに加え資本主義のネオリベの空気/合理性のもと推し進められることによって失っている感覚が多い。このあたりはなぜ空間は退屈か?とかの記事などでも書いたことに近い。タイパ・コスパに換算できないような活動こそが、対話のようなものだと思う。
退屈に感じてしまうのではないかと思う。エドワードレルフの場所の現象学から引用すると、”資本による空間の均質化を没個性場所”と呼んでいる。まさに世界中が資本主義精神によって没個性化していっているのが現状なのではないかと思っている。(なぜ、空間は退屈か?)
対話の重要性
対話が、減少すると何が良くないのか。対話に関する記事だけでも、1つ書きたいぐらい。対話がなければ、連帯を生みづらく、既得権益のみが肥えていく。対立・分断の助長、声の大きなモノや本質主義に惑わされることによる様々な弊害が起こり得るであろう。
人と人の関係性を資本的な結びつきだけではないものにすることができるのは対話という行為は重要であると考えている。(自分も得意ではないのだが・・)そうした中で人格や共同体というものを生むきっかけができる。
会社でいうと例えば1on1や雑談がまったくない会社などを想像いただくと想像やすいのではないか。組織不和の増加や、それに伴う離職率の増加などが起こるようなことは目に見えて分かる
対話とは新しい関係性を構築すること。組織とはそもそも関係性である。(中略)
対話とは自分の中に相手を見出すこと、相手の中に自分を見出すこと (他者と働く)
インターネットコミュニケーションの普及が対話を止めている?
冒頭に書いたように、メールやSlackなどにおいては要件ありきになってしまう、Slackやteamsなどのコミュニケーションは気をつけなければ感情が読み取れないかつ、余白がないコミュニケーションになってしまう。そういった場所においては対話というのは生じづらくなってきている。
電話はまだ良かった気もする。Zoomもいいのかもしれないが、Zoomなどのようなオンラインミーティングにおいてもやはり
SNSなどはどうなのか?昔は対話の場っぽい役割はあったのかもしれない。懐古厨のようかつ何度も恐縮だが、昔のSNSの雰囲気と今のSNSの雰囲気は違う。SNSというよりはメディアである。誰かと公開の場所で対話などはできない。(ヤフーコメントで会話したいか?みたいな話に近いとも思う)
もしかすると自分も試してはいるがDiscordのような小さなコミュニティのようなものは後述するが、今後どんどんインターネット上でも増えてくるかもしれない(フィナンシェのようなサービスかもしれないし、DAO的な要素かもしれない)
ここまで対話のための場所や機会が減少していることについての危惧について書いてきた。では今はそういう現象が起きているかもしれないが、過去はどうだったのかについて、少し書いてみたい。
ヨーロッパにおけるコーヒーハウス/カフェが果たした対話の場
過去どこで対話が起こっていたのか。特にヨーロッパなどにおいてはコーヒーハウス・カフェが果たした役割は大きいのではないか。イギリスにおけるコーヒーハウスやフランスなどにおけるカフェなどは様々な人達が集まり、議論をした場であった。
身分なども関係なく、パブでお酒を飲んで酔っ払うわけでもない状態において、様々な人と様々なトピックについて議論・対話ができていた場所であったようだ(ただ男性のみの場所であったことは時代背景もあるが残念だが)
また新聞や雑誌などの最新の情報を仕入れることができる場所であったため、新しいことを学ぶことができる場所でもあったようだ。そのため1ペニー大学や、penny universityといった呼び方さえもされていたようである。
「カフェを出るとき、入った時に比べて4倍頭が良くなったと思わぬ者はいない」(モンテスキュー)
フランスにおいては、同様にカフェが対話の場所として、上記のイギリスのコーヒーハウスに近い役割は果たしてきた。哲学好きなら誰しもがしっているドゥ・マゴや、カフェ・ド・フロールなどに溜まって議論や執筆活動をしていた時代があった。(パリにいったときに聖地巡礼を昔やった)
当時のサルトルは一日中、界隈のカフェ・ド・フロールというカフェに入り浸って、ものを書いている。そしてときには若者たちを自分のテーブルに集めて、議論をする。テーブルに集まる常連は、「サルトル一家」すなわち「サン・ジェルマン・デ・プレの法王」とされたサルトルを中心とした若者たちであった。(100分de名著 サルトル 実存主義)
こういったカフェ文化はそういった現代に近い哲学者だけでなく、多くの芸術家が集まる場所であったり、より更に過去にはイギリスのコーヒーハウスと同様にジャーナリズム的な流れがでてきているようでもある。そしてその対話の場はある程度細分化され、自分のコミュニティであったり興味関心によって行く場所を変えることができたようだ。
パリにはカフェが数え切れないほどあり、ひとつの通りに十や十二、あるいはそれ以上のカフェがあります。それらの中には、王族や王宮の高官が何度も訪れたことのある非常に有名なカフェもあります。[・・]オペラ座やコメディ゠フランセーズ近辺のカフェには、舞台を見る前や見た後に、何百人もの客が好奇心にかられてカフェにやって来ます。ドーフィーヌ通りにあるヘラ・ヴォーヴ・ロラン)は「知識人のカフェ」と言われています。そこでは、特定の人々が集まり、あらゆる種類の興味深い知的な話題が交わされています。(中略)
パリには他にも、ルイエ通りに文学について論じる学者たちの集まりが持たれているカフェがあり、そのカフェは(カフェ・サバン(学者カフェ)>と呼ばれています。また、ジャーナリストたちが集まるカフェもあり、そこでは、新聞が取り上げている政治問題について、さまざまな新聞を比較しながら議論されています。(パリとカフェの歴史)
そういった場所においては、お店の中で長くいながらあれやこれやと雑誌や新聞を見ながら、コーヒーやタバコを吸いながら対話をしていたのではないか。だからこそここから政党ができたり、ジャーナリズムの発生や会社の設立、アートや哲学の発展などがコーヒーハウス・カフェから生じていたのではないか。まさに対話が生まれた場所であっと認識している。
その証拠にどちらも国王などの既存権益からは、疎ましく扱われ何度かコーヒーハウスやカフェを禁止にするような法令などを試みていることは歴史上ある。
現代のカフェ=パーソナルスペースの延長
しかし現代のカフェなどをみていると、自分もその使い方もしているが個人席や電源席など、対話の場所という面もあるが、作業の場所としての側面も強くなってきてしまっている。もしくは自分たちのグループだけでの会話などが一般的であり(今の時代からすると当たり前のことではあるのだが)、従来上記で説明してきた意味でのコーヒーハウスやカフェというの場とは少し違った用途にできあがってきている。
日本においては茶室?
ヨーロッパの歴史上の、コーヒーハウスなどは有名なのだが日本において対話を促進してきた場所はあるのだろうかと考えたときに、少し異なるかもしれないが茶室のような場所や機会はそれに当たる可能性はある。(一方もうすこし、ヨーロッパにおけるクラブのような開かれてはいない場所の認識もあるので、厳密に同様なものではないかもしれない)
織田信長の時代などの戦国の時代から茶道は一つのコミュニティや対話の場所としての機能をもちはじめたようである。そういった密閉空間において、様式美を重んじる中で対話を行うことにより互いをわかり合うことができる場所として機能していたように思える。
茶の湯では集まった人たちを、数時間だけですが外界から隔離します。呉越同舟という言葉がありますが、逃げ場がないから一緒になって親しくならざるをえない。これは一種の遊びですよね。(お茶の間力)
こういった場において、自分もリサーチを十分にできているわけではないが、一番有名である千利休はよりお茶以外の話をしてはいけないなども様式美へのこだわりを感じており、そこまでいくと上記のコーヒーハウスとのアナロジーがあまりきかなくなってはくるが、師匠である方は下記の様にも述べており、お茶会という意図には多くのことが含まれていたのではないかと思う。
それは現代の、関西の方がいう”茶でもしばきにいくか?”という文化まで残っているように感じる。
利休の師匠にあたる武野 紹鷗は、茶会の狙いは「一座建立」にあるといいました。茶会に集まった人びとの心が一つに結ばれて一座が形成されたという実感が得られることが「一座建立」です。(日本のこころ 千利休)
アメリカのパーティー文化もこのような対話の場として機能していることが多い気がするし、中国などの地域においても同様な場所があったのではないかと想像している(時間なくリサーチまではできなかったので知っている方教えて下さい)
このように過去をさかのぼって考えると対話の場所というものは社会のシステムに存在しているようだった。しかし重複するが、現代においてはどんどんそういった場所や機会が減っているのに、さらにコロナによる環境変化が拍車をかけたのではないか。
そういった中で、より対話の時間というのは大事になってくるときに、現代においてはどういった場所や機会がそういうものに当てはまるのかを最後に考えてみたい。
現代におけるコーヒーハウス/茶室はなにか
過去においては、今まで説明してきた通り他者との対話の場所というのが社会に根づいた。では現代においてはどうだろうか?少し古い考えかもしれないが、タバコミニケーションや、飲みニケーションという言葉があったように、局所的には起こっていたような気がしている。(実際に自分はタバコはやらないし、お酒もあまり飲まないのでその対話に参加があまりできていなかったが・・)
一方そういったところで対話するのはある種の排他的な要素を含むかつ、今時代が向かっている方向性からは、少しズレているようにも感じる。そのため改めて今の時代におけるコーヒーハウスや茶室にあたるものは何なのかについて考えてみたい。
対話の前提条件
では、それを考えるまえに、対話が起こりやすい場所について考えてみたい。これまでのコーヒーハウスや茶室などのようなところや、タバコミニケーションなど含めて対話が起きてそうな場所から考え出されるのは、ある程度密閉性があり、アジェンダがぼんやりしており、身体性が伴い、かつ会話にクッション性がり、想定の時間より長時間一緒にいれる時なのではないかと想定している。そういった場所・機会というのは現代においては下記のようなところが考えられる。
未来のオフィス/コワーキングスペース
オフィスに関してはこれまでは作業を行いにいく場所だったとはおもうが、実は今後それがより対話をできるような場所に変化していくのではないか。単純な作業場としてのオフィスというものは徐々に消えていく気がしている。
例えば自分が新卒ではいったGoogleなどのオフィスを考えると、お菓子やランチなど食べ放題だったりして、なんて素敵なオフィスだろうかと私欲的な意味においても感じていたが、今おもうとやはりそのような仕組みによって会話・対話などが生まれやすい仕組みづくりを本気で考えていたのだと思う。(聞いてないからしらんけど)
そのようなオフィス自体というものが作業する場所から、対話をできるような場作りに変化していく可能性は高い。
まさにコワーキングスペースやコワーキングオフィスなどはそういった目的もあってつくっているのだろう。しかし個人的な意見だが、ほとんどはその目的をつくれていない感じもある。Weworkもコンセプト通りというよりは、イベントをたまにやっている別々の事業やっている人の集まりな気がしている。ただ今後より上手く運用されていくところもあるとはおもうので、そういったものを創れた企業や事業は伸びるのかもしれない。
コーヒーハウス/カフェのリプレイス:シーシャ、ボドゲカフェetc..
前述もしたが今のカフェなどが、必ずしも対話の場所になっているわけではない気がしている。もちろん人と話をしたりしにいくときにはそういった場所にいき話すことが多いが、では対話が盛り上がる仕組みが今のカフェに内包されているかというとそういうわけではないような気がしている。
そういった意味においてカフェに変わる対話の場所はいくつかでてきているように感じる。それは例えばシーシャの人気などはそういった意味合いがある気がしている。カフェでお茶を飲むより空間のつくりがゆったりしており、対話・会話を楽しむための仕組みが上手くできているように思える(水タバコというクッション性もある)
他にもサウナや、ボードゲームカフェ、マーダーミステリーなどはそういった要素があるカフェやコーヒーのリプレイス場所としてこの数年伸びてきている需要のように感じる。もしかしたら店舗数でなんの店舗が今日本などにおいて伸びているのかについて調べたりすると結構面白い結果が見れるのかもしれない。そしてこういったものはアルコール離れの影響もあるように思える。(飲み会・居酒屋のリプレイスでもありえる)
新しいオフラインの場所で対話を自然と誘発するようなものは今後も人間の需要として不変なはずで、そういったオフラインの店舗などで新しく流行していくものは今後現れるような気がしているし、投資をできるならばしたい。
ライブ配信サービス/ライブゲーミング(APEX etc..)
オンライン上での対話の場所として、SNSではもはやないというのは前述したが他に居場所として人気になっており、対話の場所としてなり得ているのはライブ配信サービス・ライブゲーミングなどはその対話の場所として当てはまっているかもしれない。
Pocochaなどのライブ配信サービスやYouTubeのコミュニティ・昔でいうとニコニコ動画のような場所は対話が生まれているようにも思える。ただ1on1などではないこともあるので、少し足りない要素はあるが、一つ場所性としてはアイデンティティを形成できるような場所に近づいているようにも思える。
またAPEX・Fortniteや古くは荒野行動などにおいて、そこがたまり場となりゲームをしながら対話をするような場面が増えてきている。特にライブゲーミングのように、同時になにかをやりながら会話をするということが今後もゲームのデフォルトになっていく可能性は高い。
その先にメタバースなどの世界もあるのだろうが、インターネット上でアイデンティティを形成してきたのが20代後半以上はSNSだったかもしれないが、今後より若い世代においては、こういったインターネットの場所において対話をして、アイデンティティを形成していく可能性はある。
NewSNS 候補/クローズドなコミュニティ:トークンコミュニティ / Podcast / Discord
新しいSNS的な要素として、例えば前述したdiscordや、DAO的なコミュニティ、日本においてはフィナンシェなど(けんすうさんと以前お会いしたときに非常に盛り上がっていると聞いた)のようなクローズド性×何かみたいなものは今後対話が行われる場所としてより盛り上がってくるかもしれない。
前回の記事でもとりあげたPodcastやこういったメルマガも広義の意味においてはそのコミュニティの一部であるようにも思える。ただ若干対話というよりは一方向性がPodcastやメルマガの場合は強いので、次のコーヒーハウスか?という問いに対しては、必ずしもあてはまるものではないかもしれない。
番外編:BarajiのいうNetoworkstate
このあたりのオンラインにおいて、もし対話がスムーズによりできるようになってくるとアイデンティティ形成がよりやりすくなっていき、共同体としての認知というものがより強固になってくるイメージがある。それはVRのヘッドセットなどの普及なのか、Web3的なウォレットやチェーンに紐づく形成なのかがきっかけか、複合的な要因によるものなのかはわからないが、そういった未来はある。
まさにBarajiがNetoworkstateで書いたような未来をつくるには対話の場所がオンライン上でスムーズになるような機会や場所やサービスなどが増えていくことによって現実味を帯びていく。
ネットワーク国家は、国家のように物理的に中央集権化されているわけでも、都市国家のように規模が限定されているわけでもないということだ。地理的に分散化され、インターネットによって接続されているのだ。
重要なアイデアは、クラウドから国土を人口化し、地球上のあらゆる場所でそれを行うことだ。イデオロギーがバラバラで、地理的に中央集権的なレガシー国家とは異なり、ネットワーク国家はイデオロギーは一致しているが、地理的に分散している。国民は世界中に大小さまざまな集団で分散しているが、その心は一カ所にある。(Network stateより)
偶然性の設計
ここまで書いてきて、対話が生まれるためには偶然性をいかに設計するのかは一つ重要であるように思えてきた。昔のコーヒーハウスなどにおいては雑誌があることや、テーマ性があるカフェがあったりや、たまたま友人がそこにいることや、お菓子があるからそこでたまたま話はじめるなどや、ゲームが一番メインでやっているが話をしながらズレていくとか。そういった偶然性がいかに設計できるかは結構重要なのではと思う。
男性の方が課題は深いかもしれない
こういう分野においても性別を主語に語るのは時代ではないかつ、正しくないかもしれないが、男性のほうが対話の機会を失う場合が多い感覚はある。女子会という言葉はあるが、男子会という言葉はない。孤独死の男女比は、全体では男性83.1%、女性16.9%(孤独死現状リポート)という話もあるように、また前回の記事でPodcastで友人をつくる男性のようなところで、なかなか対話の機会が気づくと少なくなりがちなきがしている。これは自分も当てはまるので思い当たる点もある。
次の対話の場所はどこにある?
最後にここまで、現代のコーヒーハウス/茶室はどこにあるのか?このような問いをもって、この記事を書いてきたが、今後このような場や空間などを再発明されることを願っているし、自分もそういった場所が将来的に創ることができるようにいろいろ試していきたい。またそういった場所やサービスを創るような会社がでてくればぜひ投資も検討したい。
対話による連帯こそが、今後の社会においてもより重要になってくるとはおもっているので、そういったものをよりを促進していきたい。
・引用
日本人のこころの言葉 千利休
パリとカフェの歴史Networkstate
他者と働く
100分de名著 サルトル 実存主義
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